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【知道中国 178回】〇八・八・仲一
「毛沢東」
―共産革命が生んだのは、やはり皇帝だった― |
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書評:『毛沢東』(竹内実 岩波新書 1998年)
天安門事件前年の1988年9月のある晴れた日、天安門に立った著者は、「清朝の皇帝は、この天安門上から詔書をつりさげおろした。地上では文官がうやうやしくあおぎ見ながら跪き、しずしずとおりてくる詔書を待った。黄金製の鳳凰の嘴にはさまれた詔書は、ささげもつ雲のかたちの盆におとされ、それから印刷され、配布された。(改行)新しい国家の成立を告げる場所として、毛沢東はこの天安門を選んだ。広場をうめつくした民衆にむかって、天安門から告げたのである」と語った後、毛沢東は「毎年、国慶節の日には、延々とつづくパレードをここからみおろし、『万歳』の叫び声にたいし、手をふった」と続ける。
この数行に「万歳」の原義は皇帝の、「千歳」は皇后・皇妃の永遠の生命を寿ぐべく臣下からの言上であることを付け加えれば、毛沢東による革命の実態が浮かび上がってくるはず。
中国人の世界観・宇宙観に拠れば、天安門の向こうに広がる壮大華麗な紫禁城は絶対無謬の天が地上に使わせた天子である皇帝が住む《聖の世界》となる。ひたすら皇帝の威徳にひれ伏すことで日々を送る老百姓(じんみん)は地上という《俗の世界》に群れ集う。かくて紫禁城とは地の果てまで続く広大無辺の俗の世界に置かれた至上・至高・至誠・無謬の存在であり、天安門は聖=天と俗=地とを結ぶ唯一無二の接点ということになる。
古来、天子は南面し臣下は北面するもの。あの日、毛沢東は天安門の楼上に南側を向いて立ち建国を宣言し、広場に集まった30万の民衆は北側を向いて新しい指導者の毛沢東を仰ぎながら万歳を連呼し、全国国民もまた広場の万歳に唱和した。これで、自らが否定し続けた旧い中国の象徴ともいえる天安門の楼上から、新しい中国として地上に誕生させた中華人民共和国の建国を、毛沢東が宣言した理由が判るだろう。あの瞬間、革命の同志は彼に付き従う属僚となり、国民は斉しく臣下となった。新しい国家の誕生を祝う場所は、あそこしかなかった。毛沢東は文武百官を従え、新国家の建国を天に告げる。だから死して後もなお、毛沢東は巨大な肖像画となって天安門に南面して掲げられているのだ。
毛沢東の故郷である「湖南省韶山をようやく訪ね」た著者の目に、「水田、畑、それに池、沼。畑にはさつま芋、黒芋、とうがん、なす、とうがらし、棉。へちまの黄色い花が咲く棚。沼、池には蓮の葉。水牛、豚、にわとり」といった「途中の田園風景」が飛び込んできた。生家に近い「水田は丘陵にはさまれているが、遠く東へゆくほど、拡がる。すぐまえの韶河は小川としかいいようのない、可憐な流れだった。河岸の楊柳が風にそよいでいた。(改行)丘陵には鬱蒼たる樹林。松。竹薮。樟樹」――こんな自然環境で少年時代の毛沢東は、『水滸伝』『三国志』『西游記』などを読み耽る。やがて1910年の秋に故郷を離れた毛沢東は、40年後に天安門に南面して立ったのである。
清末の混乱した社会に生まれた毛沢東は人民の「食べる問題」を解決するために革命家の道を択んだ。中国社会において若き日の毛沢東が取り組んだ「食べる問題」は、永遠の大難題でもある。鄧小平の先富論は必然的に格差社会を生み出し、官は権力を恣にして商と結託して私利私欲のままに行動し、貧者の貧しさは募るばかりだ。だが経済成長の道を爆走するしかない共産党。世界の大国への道を猛進する中国。五輪は、その象徴だ――いまこそ一党独裁政党の《原点としての毛沢東》に立ち返って考えてみるべきだ。 《QED》
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