【知道中国 180回】〇八・八・仲六
「大清帝国」
―中華思想は溺れる者が捉んだ藁だった―


  『大清帝国』(増井経夫 講談社学術文庫 2002年)

 北京五輪開会式典の口パク美少女、夜空を彩るニセ花火、漢族の子供による少数民族衣装ショー、各会場を揺るがす「加油(ガンバレ)」の絶叫――これらは凡て中華思想がなせるワザということだろうが、肝心の要の中華思想なるものが解ったようで判らない。そこで謹厳実直な歴史学者で知られる著者に見解を求めると、いわく「おしよせてくる近代の洪水に溺れるものがつかんだ藁、それが中華思想だった」ということになる。

 清代を「過去の中国の集積」と考える著者は、「旧中国の終末を、政治では官僚組織を皇帝への奉仕に統一した強力な体制と、経済では銀を主軸とした商品流通の盛大とに焦点をあわせ、その一つの極限を描写し、これを崩すものとしての外国の軍事と経済の進出、自国の農民の抵抗、市民の優勢の三者を取り上げ」て、270年におよぶ清朝の歴史を過不足なく描きだし、「過去の中国の集積」は必然的に「おしよせてくる近代の洪水に溺れ」ようとしていた。だから中華思想という「藁」を捉まざるをえなかった、と解き明かす。

 女真族の一部族にすぎなかった満州族は明末の混乱期に長城を越えて北京に押し寄せる。北京占領によって彼らの栄華の時代が幕を開け、やがて敵対勢力や不満分子を一掃し、チベットから新疆までも併合し、現在の中国の原型ともいえる広大な版図を押さえ、盛況・絢爛の時代がはじまった。有史以来の中国の伝統がものの見事に凝縮され結実した清朝の出現である。だが、やがて西方から怒涛のように押し寄せる西欧列強(=近代)の前になすすべもなく屈し、黄昏の時を迎えざるをえない。そして、漢民族による漢民族のための国家を目指し「種族革命」を掲げる革命勢力によって、辛亥の年に当たる1911年には「過去の中国の集積」としての清朝の命運は尽きたのだ。どうやら中華思想とは、漢民族が漢民族の絶対優位を守りながら満州族をも含む少数民族を従え清朝の版図をそのまま継承することの正統性をうちだすために“発明”された考えということになりそうだ。

 本書で清朝の勃興から栄華を経て落日へと向う歴史の歩みを知ることができるが、著者は「案外に日本の読者を安心させるものらしい」公式論を「つとめて避けたので」、内容が「さらに歯切れの悪さをましたようである」と危惧する。だが、さりげない表現ながら、過去から現在へと貫かれる中国社会のカラクリをズバリと解き明かしてくれる。

 「(異民族王朝の清朝成立は)たんに軍事力が強大になったというだけでは説明がつかない。
 これに対応する中国人の社会にも、その統治を拡大する要素が含まれていただろうし、民族間の噛み合せにも工夫がこらされていただろう」

 「実は、政府はこれ(=歴代の中華帝国を支えてきた農村の秩序維持を担ってきた「村落連合」)と癒着することでその政権を維持したので、郷党の父老という共同体の指導者こそ専制支配の柱だった」

「国家は直接の支配よりも組織を通じての間接支配に自信を強め、商工業はその自主性によっていっそうの発達をもたらしたのである」

 ――以上の分析に接すると、清朝の支配システムを踏襲しているがゆえに共産党政権が命脈を永らえている理由が浮かんでくる。それにしても「おしよせてくる近代の洪水に溺れるものがつかんだ藁、それが中華思想だった」の意味するところは重い。 《QED》