【知道中国 181回】〇八・八・念二
『周恩来』
――無私無欲な中国の執事か、毛沢東専任総務部長か

  『長兄 周恩来の生涯』(ハン・スーイン 新潮社 1996年)

 この評伝は、香港を舞台にした名作映画として知られる「慕情」の原作者であり、中国人を父にベルギー人を母にインド人を夫に持った女流作家のハン・スーインが、ロシア革命、五・四運動、ヨーロッパ留学運動、中国共産党創設、第一次国共合作、台頭する蒋介石による共産党掃討、長征、延安時代、整風運動による毛沢東の指導権確立、第二次国共合作、中華人民共和国成立、新国家建設、朝鮮戦争、百花斉放・百家争鳴、反右派闘争、大躍進、核実験成功と国際社会への復帰、文化大革命、林彪による反毛沢東の動き、米中国交回復、政権奪取を目指した四人組の専横――このような中国の近現代の歩みに周の生涯を、いや周の人生に歴史的出来事を重ね合わせて書き上げたものである。

 1898年に生まれ1976年に亡くなった周恩来は、近現代中国の波乱と激動の真っ只中に在り続けた。であればこそ著者がいみじくも語っているように、周恩来は「中国の執事」として、人生のすべてを中国に捧げたといえなくもない。

 「死後もなお変わらぬ敬愛、賛美の対象となる人物の伝記を書くことは難しい」と語る著者は、正確で公正な記述を心がけ、「何百人もの中国の学者、教師、労働者、また各国駐在の大使・公使など、多年にわたり周恩来の薫陶を受けた何十人もの方々のお世話」になり、「さらに中国内外から、周恩来に会ったときの回想録を」送ってもらい、「周恩来の失敗、短所を探し、それらを書き記した」のである。「だが、中国では、そのような些細な欠点は、彼の気配り、他人の意見に喜んで耳を傾け、他人を信頼する性格の証とされてしまう」と、「中国史上でもっとも誠実でひたむきな無私無欲の人物」とされる周恩来の“偉大さ”を改めて強調する。

 「不倒翁」のあだ名に象徴されるように、創設以来続く共産党の血腥い激烈な権力闘争の中枢に在りながら、周恩来は一貫して権力を失うことはなかった。そうであったのは、著者が主張するように「中国史上でもっとも誠実でひたむきな無私無欲の人物」だったからだろうか。いや、そうではあるまい。じつは革命家・政治家として彼が極めて冷徹で酷薄で激越で、さらに計算高く用心深い言動を執り続けてきたからこそ、いや、そうでなければ「不倒翁」ではありえなかったはずだ。毛沢東を筆頭にドロ臭い風体の農村出身者が多くを占める共産党幹部のなかにあって、没落したとはいえ江蘇省淮南の名望家の長男として生まれた家庭環境、少年の頃から「愛らしい面立ちだった」といわれる容貌が「中国史上でもっとも誠実でひたむきな無私無欲の人物」というイメージ作りに奏功しただろう。

 だが若き日の周恩来は命令を下し、党を裏切った某党員一族の「十二歳の少年を除く十七人」を「全員処刑」にしたうえに、死体をその家の庭に埋めてもいる。長征の途中までは毛沢東より高い党内序列に在ったにもかかわらず、やがて毛沢東の権力が確立して以降は、著者も指摘しているように彼は毛沢東に対して終始一貫して「主君の身を気遣う忠臣ぶりを発揮し」続けた。それゆえに「毛沢東専任の総務部長」だとの酷評すらあるほどだ。

 はたして周恩来は「無私無欲な」「中国の執事」なのか。それとも毛沢東という「主君の身を気遣う忠臣」だったのか・・・いずれが正しいかは、一人ひとりの読後感のなかにある。因みに評者は後者だと、強く思う。 《QED》