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【知道中国 186回】〇八・九・仲ニ
「松本重治」
―「胡適先生、それじゃあ中国に具眼の士はいるんですか」― |
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『上海時代(上・中・下)』(松本重治 中公新書 昭和50年)
前年秋の満州事変に続き2月の上海事変、三月の満州国建国宣言と溥儀の執政就任、5月の5.15事件、9月の満州国承認と、日本の針路を大きく左右する事件が相次いだ32年の12月、若き日の松本重治は聨合通信支局長として東アジア最大の国際都市であり、「魔都」と呼ばれるに相応しい猥雑で危険な香り漂う上海に赴任した。松本は「当時の上海は・・・あらゆる種類の人間の往来離合集散の一種の市場みたいな場所であった」と回想する。
以来、38年末までの6年間、上海在住の日中両国に加え欧米の政治家、軍人、外交官、ジャーナリスト、財界人、知識人などと交友を結ぶ。そして数年後には全面戦争へと突き進むことになる縺れにもつれた日中関係の核心に逼ろうとして意欲的な取材を続けた。その時の松本を支えたのはアメリカ留学時に学んだ「日米関係の核心は中国問題だ」との《信念》であり、同時に上海で築かれた日中双方の政治や軍事の中枢にまで広がる人脈だった。
ジャーナリストとしての松本のハイライトは36年末に発生した「西安事件」をスクープし、いち早く世界に向けて打電したことだろう。この事件には現在もなお未解決のナゾがあまりにも多い。だが、張学良と楊虎城が企図したといわれる事件が、結果として対立していた国民党と共産党の両党を結びつけ、抗日の波を全国に巻き起こすのであった。翌37年7月に盧溝橋事件が勃発し、戦場は中国全土に拡大する。ドコマデ続ク泥濘ゾ。
この間、日中双方は公式・非公式にかかわらず様々な人脈、チャンネルを通じて和平工作を進めるが、どれがホンモノでどれがニセモノなのか。誰と誰が、どんな縁で結ばれ、どの“密使”がクワセモノで、誰が誰を騙し、誰が本筋なのか。互いが疑心暗鬼に陥り、相手の氏素性を探り合いながら和平交渉が重ねられてゆく。松本もまた、その渦中に身を投じた。香港のレパルスベイ・ホテルのベランダでの和平交渉の描写は、じつに印象的だ。
上海を拠点に、緊迫と緊張の度を加える日中関係の現場を取材したジャーナリストの回想は、生きた日中関係を知るうえで手頃ながら第一級の解説書といっていいだろう。
「抗日風潮の昂まりゆくさなかに、自ら挺身して対日交渉に当たった汪兆銘、唐生智、高宗武
らは、すべてほんとうに勇気ある愛国者であった。・・・一身の安全を顧みなかった彼らに対し、
私は満腔の同情と敬意を抱かざるを得なかった」と讃えるが、そこに国籍や民族や政治信条の違
いを超えた「同生同死」の強い絆が浮かび上がってくるように思える。
松本は「満州事変から『満州国』建国までの基本的構想は石原莞爾氏に代表されていたが、中国全体に対する認識と対策を理論的に体系づけたものは、日本陸軍には一人もいなかった」と切り捨てる。たしかに「君は中国人を人間として扱っているようだが」などと松本を詰る幹部軍人がいるようでは、対ソ戦略は急であったという留保をつけたとしても、マトモな和平交渉などできはしない。それゆえ松本は、日本の一連の対中外交を「性格分裂を露呈した」と痛烈に非難する。情けないが、対中外交は現在も「性格分裂」のままだ。
「今から四十年前の当時を回想すれば、非はまさに全体として日本側にあったと考えざるを得まい」との松本の《反省》の当否は暫く措くが、当時の中国の代表的知識人でもある胡適が「松本君、日本に具眼の士はいないのかね」と怒りを露にした時、なぜ松本は「胡適先生、それじゃあ中国に具眼の士はいるんですか」と言い返さなかったのか。 《QED》
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