知道中国 190回】〇八・一〇・初七
「チャイナタウンの女」
―いまこそ、バーチャルではない“生身の中国人”を知るべき時だ―

 『チャイナタウンの女』(デニス・チョン 文春文庫 1998年)

 1909年に西大后が没したことをキッカケに“黄昏の清朝”のタガは完全に外れ、急坂を転げ落ちるように崩壊に向かう。1911年、孫文を指導者に担いだ革命派は辛亥革命を起こして清朝支配に止めを刺したのだが、それだけで世の中が一新されるほど中国社会は単純ではない。
 中央政権は名存実亡。軍閥や地主などが各地に跋扈する。軍閥は外国勢力と手を結び、地主は既得権益を堅持し生き延びんがために私兵を養い、金持ちは高い塀を廻らせた豪壮な屋敷に立てこもり、互いに時に手を結び時に裏切り、殺し尽くし、奪い尽くし、そして焼き尽くし。かくて混迷は増すばかり――これが当時の中国の姿だ。

 そんな時代である。貧乏人にできることといえば、顔を顰め時代を恨みながら運命に身を委ねるか、自分の肉体と度胸と才覚を武器に故郷を飛びだして一旗挙げるか・・・。

 広東の田舎に生まれた陳三は、父親に倣って「国を出て飢えと希望のうずきをいやし、祖国で失われた安定を求め」て北米に渡る。当時、行き着いて働きさえすれば大金を手に入れることができると無邪気にも信じ込んでいた広東人は、アメリカをカネの山と思い込み「金山(カムサン)」と呼んだ。「故郷に錦を飾りな」と父親の親戚筋の老婦が餞別代りに貸してくれた700ドルを元手に、「一生懸命働いて銭ためて、家の入用分を賄えるだけの仕送りをするでよ」と妻の杏宝にいい含め、陳三はカムサンを目指し故郷を後にした。

 苦労に苦労を重ねた陳三は、念願かなって「故郷に錦を飾る」。跡継ぎ息子が欲しくなった
 彼は、故郷で第二夫人の梁美英を娶った。「待望の息子を中国ではなく、カナダで生むことにした」彼女は身重の体でカナダに。だが期待に違えて生まれた子どもは娘。故郷に戻ろうとする傷心の陳三を前に、美英は「子供はこちらに残し、あんた一人で帰ったら、としぶった」。
その日から、美英母娘のカナダでの悪戦苦闘が始まる。

 それから長い年月が過ぎた1987年のこと。美英がカナダで生んだ馨(ウイニー)とその娘のデニスは、半世紀ほどの昔に陳三が故郷に建てた家で、デニスにとっては母親の馨の「姉の屏伯母と腹違いの弟、源叔父に初めて会った」。やがてデニスは太平洋を隔てたカナダと中国という2つの国の激動の時代を生きた陳一家の苦闘の歴史を綴ろうと思い立つ。

 彼らは中国とは全く異質の海外社会でも飽くまでも中国人として生きようとし、生き抜く。
 もはや祖国は国家としての権威も機能も失い、列強のなすがまま。19世紀半ばから1世紀ほどの間は、彼らに救いの手を差し伸べる余裕も能力も意欲もなかった。だが、“現在の祖国”は国家戦略の一環として「走出去(飛び出せ)」のスローガンを掲げ、中国人の海外進出を強く奨励する。であればこそ多くが中国を飛びだし世界の都市に押し寄せ、中国人として振る舞いを押し通し生活圏を拡大してゆく。かくて世界は生身の――毛沢東流に表現するなら「メシを喰いクソを垂れる」中国人に初めて接し、訝しがり、戸惑い、恐れ、遠避け、身構える。
 それというのも、世界が生身の中国人を知らなすぎたからだろう。

 疾風怒濤の近現代に彼らがどう立ち向かい、荒れ狂う時代の波濤が彼らをどう呑み込んでいったのか。海外に移り住んだ中国人である華僑とも華人とも呼ばれる彼らの生き様と死に様を振り返り、したたかに生き抜く生活術の“奥義”を覘き、これまで身近にしたことのなかった「メシを喰いクソを垂れる」中国人を知ることが、いまや急務なのだ。  《QED》