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【知道中国 195回】〇八・十一・仲一
『溥傑自伝』
―それを望んだのは誰だったのだ― |
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『溥傑自伝 「満州国」皇弟を生きて』(愛新覚羅溥傑 河出書房新社 1995年)
最後の皇帝として清朝の幕引き役となり、満州国では初代にして最後の皇帝。突如として南下侵攻してきたソ連軍に逮捕され、ソ連と中国で戦犯として15年の収容所生活を送った後に共産党政権から特赦され中国人民に生まれ変わる。その間、連合国側証人として極東国際軍事裁判の法廷に立ち「関東軍の操り人形」であったと言い張った溥儀に負けないほど、「皇弟」の溥傑も数奇な運命を生きた。
著者は日本の学習院から陸軍士官学校に進み、「日満親善」の象徴として嵯峨公爵家の令嬢と結婚。
2人の間に長女として生まれ溥儀からも可愛がられた慧生は後に「恋に殉ずる」。伊豆の天城山中で死体となって発見されたのだ。満州国崩壊後、瀋陽で捕虜となりチタ、ハバロフスクを経て兄と同じ撫順で戦犯生活。特赦された翌年の61年には周恩来の計らいで日本に戻っていた浩夫人を北京に呼び戻し家庭生活を再開。
文化大革命という「大災厄の日々」を周恩来の庇護で乗り切り、「思い出の日本を訪れ」る。
次女の福永嫮生によれば、著者は「とりわけ天皇・皇后両陛下のご訪中を喜」こび、「皇族の方々をはじめ、多くの知人、友人の皆様に大変大事にしていただき、いつも『まことにもったいない、ありがたいことだ』と感激に涙して」いたそうだ。日中関係の裏面史を物語る溥傑の波乱に満ちた生涯だが、なかでも清朝再興を巡る一族内の考え方の相違は興味深い。
1911年10月に辛亥革命が勃発し翌年2月に宣統帝である溥儀は退位を宣言し清朝が崩壊するが、中華民国政府から特権を与えられ、「私たちは依然として贅沢三昧な暮らしをしていた」。
紫禁城内という制約はあったものの、皇帝時代と変わらない生活を維持する。だが清朝を倒した「辛亥革命や孫中山・袁世凱の話になるとがっくりし、また切歯扼腕」し「私たちはいつも清王室の皇祖はみな仁心が厚く、人心の願うところであり、このまま滅びることはない、将来またよくなる日もある、と思い、『不遇極まって福来る』日を待っていた」。であればこそ「私たちはいつも」清朝の再興に思いを馳せたとしても不思議はない。
元「皇弟」たる「私には清室を振興するには外援が絶対必要であるという考えが強くなった。・・・将来どの国の援助に頼って帝制を回復するか、ということが私の頭から一時も離れなかった」。一方、宣統帝として一度は清朝の玉座に坐った兄の溥儀は満州国の帝位に清朝皇帝を重ね合わせ、そこに「清室を振興する」道を求めた。ところが兄弟の父親で、宣統帝の先代であり清朝11代目・光緒帝の異母弟に当たる醇親王は、大反対。「『満州国』の皇帝になることに父は反対を表明したが、溥儀が聞き入れなかったのが口惜しく、涙を流した」。この本に拠れば、弟が「絶対必要である」と考えた「外援」を日本と見定め、兄は泣いて反対する父親を押し切って「『満州国』の皇帝にな」ったということになる。
著者は本書の末尾に「旧社会は、罪悪の深淵である。一人の男が暗黒の社会で曲がりくねった道に入りこみ、しかも遠くまで歩んでしまった。しかし共産党が彼を救いだし、彼までもが人民のため国家のために役立つ仕事ができるようにさせたのである」と自らを「彼」と綴り客観視し、共産党への感謝を表明する一方、「旧社会は、罪悪の深淵」と罵る。だが「最悪の深淵」で、なぜ「依然として贅沢三昧な暮らし」ができたのか。「共産党が彼を救いだし」た理由はなんだったのか――『溥傑自伝』が語ることはない。 《QED》
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