【知道中国 198回】〇八・十ニ・初二
『豚と対話』
―「君はこちらでよくも四十数年も頑張ってきたな」―


  『豚と対話ができたころ』(楊威理 岩波現代ライブラリー 1994年)

 「一九二五年、台北近郊の古い町・台湾のナポリと呼ばれる淡水に生まれた」著者は、「学問は日本でしっかり身に付けよ、将来は中国大陸に戻って大政治家になれ」との父親の期待を一身に背負い、仙台の東北帝国大学医学部へ。在学中に日本は敗戦。「祖国再建の熱情に駆られ」、1946年には台湾経由で中国大陸に渡り北京大学に入学し経済学を学ぶ。「中国で搾取のない社会を造り得るのは、この党よりほかにない」と固く信じ、共産党に入党。24歳で党中央委員会直属の中央編訳局図書館長に就任。以来、64歳の退職まで「万年館長」を続けた共産党政権下での40年余の痛恨、悔恨、諧謔の日々を、赤裸々に語りだす。

 著者が「この党よりほかにない」と思い込んだ「中国共産党統治下の社会では、・・・あらゆる政治事件に自己の態度を表明することが強制される。もちろん、その態度は共産党中央の態度と一致するようにと、有形無形の圧力がかかってくる。不一致の態度をとれば、不都合なことがやってくる。その典型的な例が文革であろう」。

 10数年間も館長に留められたたまま鬱々と日を送り中央編訳局の「上司を恨み、同僚を妬んでいた」彼は「復讐の念に燃え」、文革を報復の好機と捉えて過激に造反活動を展開し、ほどなく「編訳局の文革の指導者となる」。だが、69年2月に古参幹部が文革を批判した頃から彼の立場は激変する。「『革命幹部』から『人民の敵』になっ」てしまう。そこで「北京の南、遥か千三百キロの寒村」に送られ幹部学校という名の「国家公務員の矯正労働の場所」に放り込まれた。71年からの2年間、彼は50頭ほどの豚の飼育係りを強制される。やがて豚の「言わんとすることが分かるようにな」り「豚どもとの対話」がはじまった。

 この本で興味深いのは文革中の闘争の凄まじさについての記述もさることながら、やはり農村の姿だろう。63年の段階で早くも「農村の幹部は悪辣を極め、汚職、窃盗、蓄妾などは朝飯前のこと、投機買占めが流行し、高利貸しが流行り、一口でいえば、農村は生き地獄そのものであった」。そして改革・開放後の農村は「一口で言えば、県長、郡長、町長、村長と、既に一つの搾取系列ができており、この系列がまた省の中枢と北京の中央に繋がっている」。文革を経ても改革・開放されても、農村の支配構造は牢固として変わらない。

 文革も終わり元の職場に戻るが、「人民と甘苦をともにする考えなんぞ、高官の頭の中にはもう微塵もなく」、「ロボットより低脳なる人間」にならなければ生きられない社会に疲れ果て嫌気が募るばかり。1988年の秋に訪中した日本の友人は、「こんなに魅力ある中国、こんなにつまらない日本。君はなんで悩んでいるのだい?」。そこで、「一週間ぐらい名所旧跡を見るのはいいがね。

 三週間でいいから住んでごらん」と答える。「その翌年、天安門事件の最中に一高出身の台湾の友人が訪中し、三週間滞在した。彼曰く『君はこちらでよくも四十数年も頑張ってきたな!大陸に来てびっくりした。全くなっちょらん。窒息しちまうよ。君は台湾に帰るか、日本に行ったほうがよい』と」。やがて日本時代の「老朋友」らの助力で日本へ。数10年ぶりに戻った台湾で彼は「日本の政治家は中国に恐れをなして、台湾訪問をはばかっている。欧米諸国、東南アジアの高官は堂々と台湾をおとずれているのに、である。日本が台湾問題でバスに乗り遅れる可能性は十分に存在する」と難詰する。

 日本よ日本人よ「全くなっちょらん」・・・著者の呟きが聞こえてくるようだ。  《QED》