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【知道中国 202回】〇八・十二・三〇
『タイ華人人脈』
―タイ新政権と“チャイニーズ・コネクション”― |
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タイの長すぎた政治的混乱も一段落し、12月22日にはアピシット政権が発足した。タクシンが率いたタイ愛国党で中核党員だった前歴が災いしてか、李天文の華字名を持つ華人二代目のウィーラチャイの首相府大臣就任まで紆余曲折があった。同大臣は06年9月のクーデターによって発足した軍事政権で首相に就任したスラユット大将の副秘書官兼スポークスマンを務めているが、スラユットが住んでいた豪邸の家主はウィーラチャイの父親であるスチャイ(李景河)。スラユットは大家の息子を自らの副秘書官に任命したわけだ。
07年2月、軍人ゆえに経済政策に疎いスラユット首相は内外経済界から浴びせられる不評一掃を狙ったのだろう、ソムキット(曾漢光)を対外経済調整委員長に任命した。
だがソムキットは前(06)年9月にクーデターで倒れたタクシン政権で副首相や商務相を務めた知恵袋。同政権が強力に推進した「タクシノミックス」と呼ばれた経済政策の立案者兼司令塔だった。
さすがにスラユット政権内からも批判が相次いだことでソムキットは辞任せざるをえなくなったが、当時、ソムキットを強く推したのがウィーラチャイだった。
さて父親のスチャイだが、1925年に広東省で生まれ20歳前後に渡タイ。第二次大戦直後の混乱期のバンコクでのし上がってゆく。貿易(砂糖、金)の傍ら、バンコク銀行を興したチン・ソポンパーニット(陳弼臣)に接近し海運業に進出。
60年代半ばにはチンのツテで知り合った華人銀行家と合弁で香港に香港工商銀行を創設。60年代末に創業し現在に続く明泰(MT)集団の主なビジネスは、不動産、化学工業、貿易、海運、リゾート開発。
70年代半ば、タイ中国交回復を機に泰中友好協会を組織し、会長に後のチャーチャーイ首相(88年から91年)を担ぎ出し、自らは副会長に。86年に泰中促進投資貿易商会を組織し会長に納まり、タイの対中貿易に睨みをきかすこととなる。88年にチャーチャーイ政権が発足するや、同首相との太いパイプを前面に押し出し、華人有力企業家を募って工業団地開発に積極参入。じつはソムキットは首相顧問団の1員としてチャーチャーイ政権の政策全般に辣腕を振るった。同顧問団の主なメンバーは、今回の反タクシン陣営の急先鋒であるソンティ(林明達)経営のメディア集団のブレーンを経てタクシン政権入り。ソムキットはチャーチャーイ、ソンティ、タクシン、スラユットと渡り歩いたことになる。
90年代初期、スチャイは息子をテコに有力華人企業家と姻戚関係を結んでいる。長男のウィーラチャイの相手はタイの代表的銀行であるカシコン銀行を経営し、王室とも関係が深い華人名家のラムサム(伍)一族の総帥であるバンチャー・ラムサム(伍捷樸)の娘。次男の相手はタイ最大の多国籍企業で中国進出で知られるCP(正大)集団を率いるタニン・チョウラワノン(謝国民)の長女。2人の息子の結婚を機に、スチャイはバンチャー、タニンと組んで泰華国際銀行を96年に上海に創業するなど、新たな対中ビジネスを強力に展開することとなる。CPは当初はタクシン政権支持を打ち出していたが、後に反タクシン運動の有力スポンサーに転じたとも報じられている。
ところで新首相に就任したアピシットの華字名は袁順利。タクシン政権が危機的状況に在った06年6月に訪タイした中国共産党中聯部部長補の譚家林と面談しているが、当時から北京はポスト有力候補の1人にアピシットを想定していたということだろう。
それにしてもタイ政財界の裏側に潜む華人人脈は、複雑怪奇で奇々怪々。 《QED》
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