【知道中国 209回】〇九・一・念三
『わらわし・・・』
―戦場にも笑いはある―


  『「わらわし隊」の記録』(早坂隆 中央公論新社 2008年)

 “伝説の夫婦漫才“といえばワカナ・一郎。歯切れいい早口のしゃべくりのワカナを、おっとりと切り返すアコーデオン抱えた一郎。左が振袖姿のワカナで右がゲートルを巻いた一郎――こんな舞台写真を手に著者は「南京で写されたというこの一枚の写真を前にしていると、速射砲のように喋るワカナの声域の高い声が聞こえてきそうである。シャッターが切られたのは、一郎が独特のおっとりしたツッコミを入れた瞬間であろうか。笑顔を浮かべる二人の背後に掲げられているのは、大きな額に飾られた孫文の肖像写真である」。

 昭和13年1月15日、空の英雄の荒鷲隊に因んで「わらわし隊(中支慰問班)」と名づけられた吉本興業所属のお笑い芸人の一行は日本を発ち中国に向かう。一行の中にワカナと一郎がいた。
 戦地で兵士を慰問するため。彼らを送り出したのは朝日新聞社。

 2人は1月23日から27日にかけ、当時の南京で最大の収容能力(2500人)を持っていたと思われる国民大会堂の舞台に立つ。

 ワカナ:ち”や東洋平和の為、日支親善の唄をお聞かせしませうか?

 一郎:あゝ、お願ひします。

  ワカナ:熱海の海岸リュタ、リューター/貫一お宮の リャンコレン/共にショウファも チンテン限り/共にリュタリュタチンテン限り/あゝ、宮さん、アノ月カンカン。

 一郎:カンカンとは何ですか?

 ワカナ:来年のチンテンワンシャン、十五年後のチンテンワンシャン、オデの涙でシヤオチヱライクゥー。(漫才台本は『漫才作者 秋田實』平凡社ライブラリー)

 昭和12年10月12日の召集で柳川兵団に編入された島田親男さんは、「南京陥落後は、前進して来た道を逆行。再び杭州まで戻り、その地で軍務に就いた」。その杭州で、わらわし隊の舞台をみている。「劇場は立ち見まで出るほどの満員だったという。・・・島田さんはゆっくりと口を開き、遠い記憶を正確に辿ろうとするようにして話はじめた。『ミスワカナがですね、「金色夜叉」を支那語を交えながら唄うんですよ。熱海の海岸リュタ、リューター、なんてね。リュタというのは散歩という意味です。で、貫一、お宮のリャンコレン、と。リャンコレンというのは二人連れという意味なんです。これには私たちは本当に喜びました。懐かしい日本のことも思いだせるし、それが支那語になっているのがなんだかおかしくてね』」。「それでも島田さんは『三○万人』と言われる大虐殺については首を傾げる」。

 おそらく南京大会堂でも、ワカナ・一郎は同じネタで舞台に立ったのではなかろうか。

  「この当時、南京にいた日本兵の数は約四〇〇〇人。・・・その後(南京陥落戦後)も南京に留まったのは、奈良の三八連隊、津の三三連隊が中心で・・・南京で警備にあたっていた約四〇〇〇人のうち、わらわし隊の舞台に約二五○○人が集まっていたことになる。実に駐留部隊の約六二・五パーセントの兵力が一ヵ所に集まり、しかも演芸を観て腹をよじって笑っていた。それが昭和一三年一月二三――二七日にあった南京の本当の光景だ」。

 かくて著者は「兵隊一人ひとりに、壮大な人生ドラマがあった。これらは日本人の大切な精神遺産である。そのことに対して、闇雲に蓋をする必要など、どこにもない」。  《QED》