【知道中国 220回】〇九・三・初三
『我与中共和柬共』
―“ポル・ポト革命”で道化役を演じた中国共産党工作員の悔恨―

  『我与中共和柬共』(周徳高 田園書屋 2007年)

 著者は1932年にカンボジア西部バッタンバンの農村生まれ。父親は広東省掲陽県で農民だったが、カンボジアに渡り鉄道作業員となる。家庭が貧しく、著者は12歳から職人奉公。自らが置かれた劣悪な環境ゆえに共産主義思想に強く魅かれ、中国共産党がカンボジア華人社会に設けた地下組織に参加。やがてプノンペンで華字紙の「棉華日報」に職を得て記者として12年間働くが、この間、中国大使館にスカウトされ特殊工作を担当する北京の「中調部」に属する秘密工作員となり、“危ない橋”を渡る人生を歩くこととなる。

 1963年にはカンボジア訪問の劉少奇夫妻爆殺を狙った国民党の謀略を事前に摘発するなど、忠実で優秀な工作員として働くが、ポル・ポト政権成立前後から中国共産党の方針に疑問を抱きはじめた。

 中国共産党の手駒であった華人地下組織の幹部に対し、中国大使館はカンボジア共産党の支配する「解放区」に入りカンボジア共産党の党勢拡大に努め、最終的にはカンボジア共産党を支配下に置くべしと指令する。だが、カンボジア共産党の指導権を確保したポル・ポト派は中国共産党の階級分析を忠実に学んでいた。だから彼らにとって、カンボジア人民の血を吸うブルジョワ階級である華人はカンボジア人民の敵でしかない。加えるに、中国共産党は現地の情況を無視し強引にも地下組織をカンボジア共産党に編入してしまう。著者ら“忠実な革命戦士“の運命はポル・ポト派の思うがまま。地下組織全員の中国に引き上げを懇願するが、中国共産党は無慈悲にも、「以後、我われと諸君とは一切関係なし」と、たったの一言。やがて著者も、阿鼻叫喚の地獄絵図と化したカンボジアを彷徨う。

 1978年夏、カンボジア東部からヴェトナム軍が進攻を開始する。9月、救援を求めて訪中したポル・ポトに向かって、「ヴェトナムは裏切り、恩知らず」と痛罵した鄧小平は、「カンボジアの苦境はポル・ポト極左路線が自ら招いたものであり、国民的支持を集めているシハヌークと統一戦線を結成しヴェトナムに対抗せよ。中国は反ヴェトナム支援軍を出兵できない」と熱弁を振るった。だが、ポル・ポトは薄ら笑いを浮かべるだけ。この時、ポル・ポトは腹の中で、さぞかし「反革命の修正主義ヤローめ」と思っていたことだろう。

 シハヌークに向って「殿下の愛国の熱情を汲み取らないばかりか、中国に対してすら反抗的であったポル・ポト派とはきっぱりと手を切ります」と表明したといわれる鄧小平に対し、著者は「空しくジャングルに死んでいったカンボジアの数百万の人々、数十万の華人に対して侘びのことばすらない。共産党は口を開けば『人民』を持ち上げるが、その実は王侯貴族なんだ」と斬り捨てる。また死の直前、病床を見舞ったポル・ポト派最高幹部に対し極左路線の文革が中国人民にもたらした災禍を例に引きながら「心の底から忠告したい。我われが犯した極左の道を歩んではならない」と教え諭したといわれる周恩来に対しても厳しい糾弾のことばを投げかける。「敢えて周恩来に問い質したいのだ。中国共産党が錯誤の道を驀進している時、周恩来よ、いったいアンタは何をしていたんだ」

 1979年夏、広州に逃れていた著者に対し、党中央はポル・ポト政権崩壊後のカンボジアに戻り情報収集すべしと命ずる。だが著者は断固として拒絶し、決然とアメリカに去った。

 中国共産党は我が人生を狂わせた疫病神――著者の回想が、そう語りかける。  《QED》