【知道中国 221回】〇九・三・初六
『華人難民投書』
―「革命の大義」と「民族の栄光」のための生贄―

  『越南 柬埔寨 華僑的悲惨自白』(科華図書出版 1982年)

 いまからちょうど30年前の1979年2月のことだ。カンボジアと国境を接するタイ東部のアランヤプラテートに1週間ほど滞在したことがある。街の東を流れる小川に掛かる橋を越えた向こうはポイペト。後にカジノの街に変身したが、当時はポル・ポト派の重要拠点の1つだった。カンボジア東部から掃討をはじめたヴェトナム軍は、プノンペンを放棄し西方のカルダモン山系を目指して潰走を続けるポル・ポト派を追尾した。ポル・ポト政権崩壊を機に多くのカンボジア国民は恐怖政治を逃れ、難民となってタイ領に溢れだす。

 宿はアランヤプラテートでなんとかみつけた老朽ホテル。部屋に冷房設備なんぞあるわけがない。天井の扇風機が唯一の頼りだが、淀んだクソ熱い空気をかき混ぜるだけ。眠れないままに時が過ぎる。と、遠くカンボジアの方角からドーンと大砲の音。次いで大地が揺れ、部屋の調度がガタガタと音を立てる。やがて明かりがスーッと消え、扇風機が音もなく止まる。部屋の中も窓の外も漆黒の闇。蒸し暑い空気・・・そこは戦場に接していた。

 翌朝、カンボジア難民のためにアランヤプラテート北郊に設置されたカオイダン難民収容所へ。国境沿いに北上すると、カンボジア側のジャングルの中から難民の群れが現われる。彼らも収容所に向かうのだ。当時、ここに14万の難民が収容されていた。難民収容所とはいうものの、紛うことなき人口14万の都市。美容院、床屋、仕立て屋、食べ物の屋台が軒を並べ、キャバレーから売春業者まで。驚くなかれ経営者の大部分は華人。そこで屋台のオヤジに尋ねると、タイまで逃れれば難民収容所がある。人が集まれば食べ物屋台は商売になるはずと、一家で手分けして厨房用品を担いで地雷原を突破してきたという。収容所には華人の相互扶助のための自治組織まで結成されていたのだから、さらなる驚き。

 3日、4日と通うと顔なじみの華人難民もできる。彼らは宛先は書いてあるが切手の貼ってない航空郵便封筒を差し出し、バンコクに戻ったら申し訳ないが切手を貼って投函してくれという。何通か読ませてもらったが、多くはフランスやアメリカに住む親戚・友人宛に血の繋がりがあることを証明してくれ。航空運賃をだしてくれなどと書かれた救助や渡航援助を依頼するもの。自分たちの苦境を香港などのメディアに訴える投書もあった。

 タイに逃れたヴェトナムやカンボジアの難民からの、そんな訴えを120通ほど集めて編まれている本書に、さてバンコクで投函したやった手紙も収められているだろうか。

 「『祖国』とは呼べない『祖国』に、なぜ我々は同情と援助を求めるのか。我われを虐殺した人殺しのポル・ポト集団を中国共産党が支持する理由が、いま、やっと判った。後悔したところで、時間は戻ってはこない」(「騙されるのは一度だけでいい」)。「なぜ共産党は無辜の人民を苦しめるのか。中国共産党と暗愚のシハヌークがポル・ポト殺人集団を支持しなければ、カンボジアでこんな悲惨な出来事が起こりようはなかった。ヨーロッパの国々は人道的に難民を受け入れてくれる。私は中国人であること恥じ、恨む」(「これが共産党のいう民主だ」)。なかには、「金儲けと仲間第一の我々の生き方が現地の人々の怨みを招き、現地社会への同化が表面的でしかなかったがゆえに、中国共産党の第五列と見られてしまったのだ」(「華僑の特徴の欠陥」)と、自分たちの生き方こそが惨禍の要因だとの反省も。

 華人難民の訴えに、30年前のカオイダン難民収容所での1週間が蘇ってくる。  《QED》