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【知道中国 227回】〇九・三・念七
『天讎』
毛沢東に反旗を翻した紅衛兵に残された道は国外逃亡しかなかった |
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『天讎 一個中国青年的自述』(凌耿 友聯書報発行公司 1972年)
「1966年6月1日早朝5時、家の近くでがなりたてる拡声器の音で目が覚めた。だが、寝ぼけ眼のまま。何を言っているのか。さっぱり聞き取れない。誰かの演説のようにも思えるし、拍手が鳴り響いているようでもあるし」――こんな朝の風景ではじまる紅衛兵の回想録は、母親にそれとなく別れを告げ、68年7月19日に次兄と2人で夕暮れ時の廈門の海岸から泳ぎだす場面で終幕を迎える。
厳重な沿岸警備の目を逃れ、波間に身を隠すように泳ぎだす彼らの行く手には台湾側の金門島が浮かんでいる。そこまで、わずか6キロ。だが中台両陣営が厳しく対立していた当時である。限りなく遠い距離だ。洋上を漂う著者は去り行く故郷の方角を振り返る。「廈門島の西の空は、まるで燃えさかってでもいるかのように真っ赤で、左手に連なる山並みは、さながら大蛇がのた打つようにうねうねと続いていた。すると、急に恐怖が襲ってきた。その時、僕ら2人は果てしない大海原に浮かぶチッポケな2個の粟粒でしかなかった」
6月1日、いつものように廈門第八中学に登校すると、校内の様子が変だ。「今日午前の授業はなし。9時から集会だ。どうやら新しい運動のためらしい」が、「僕ら世代の大陸青年は、動向が予測し難く変転極まりない社会で生きていた。それゆえ政治的事件に対する適応力が養われている」。クラス別討論会で著者は逸早く「志願書と挑戦状を書き、学校の党支部と工作隊に提出し」、文革への参戦を勇躍と表明。先んずれば人を制す、である。
日頃から気に入らない教師たちを校舎の一角に閉じ込めリンチを加え、「反革命」の自白を逼る一方、軍人家庭の子女を中心とする家捜し隊を標的の留守宅に送り込みラジオ、書籍、家計簿などを押収する。庭を1メートルも掘り返すかと思えば、壁を崩す。隠匿アヘンの摘発・押収は名目で、狙いはカネ目のもの。というのも、「建国以後、多くの家庭で貴金属や宝石を壁や庭に隠した」からだ。学内に派閥が生まれる。どの派閥も真の毛沢東派だと名乗りはするが、所詮は父親の社会的立場を擁護し家族を守るため。著者たちが学内を制圧し紅衛兵を選任する権限を持つや、生徒の多くから小刀やサングラスを贈られ、街の食堂に招待されはじめた。誰もが紅衛兵になりたがっているのだ。テイのいい賄賂だ。
文革の進展と共に紅衛兵運動は過激さを増し、社会秩序は崩壊へ向う。街角に売春婦が立ち、紅衛兵になりすましたゴロツキは強盗やかっぱらいのし放題。これを革命無罪・造反有理(ならぬ有利)というなら、デタラメが過ぎる。文革とは弱肉強食の世界だった。
66年12月、著者は廈門第八中学紅衛兵組織指導者として北京に行き天安門広場での百万人紅衛兵集会に参加し、「毛主席万歳」の熱狂のなかで感激に震えながら毛沢東を目にする。彼らの合言葉は「他省の紅衛兵に遅れをとるな」。だが、著者は毛沢東と文革に疑問を持ちはじめる。というのも、北京旅行の往復で社会の現実を見てしまったからだ。上海では劣悪環境で働く女工に衝撃を受け、杭州ではトイレまで押しかけてくる売春婦に面食らい、安徽省では沿線に溢れる乞食と飢えた子供たちを車窓から眼にして心を痛める。毛沢東に利用されたと悟り、毛沢東政治のカラクリに気づいた時、文革混乱収拾に出動した解放軍が紅衛兵のうちの反毛派過激分子狩りに乗り出したことを知る。ヤバイ。逃げろ、国外へ。
だが大多数の紅衛兵は逃げも隠れもせず中国を生きる。現在に到っても、なお。 《QED》
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