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【知道中国 230回】〇九・四・初七
『魯迅』
―遂に“日本の魯迅”になれなかった男の詠嘆と悲哀― |
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『魯迅』(竹内好 春秋社 1961年)
魯迅は「論争を通じて、何物かを得ていったのである。あるいは、何物かを捨てていたのである」。「彼は、苦しみの表白のために、論争の相手を求めたのである」。「彼は旧時代を攻撃しただけではなく、新時代をも恕さなかったのである。嘲罵の多くは、彼の愛した同時代以後の青年から受けている。それに対して彼は、身を退くことを知らない」。魯迅は「学匪、堕落文人、偽善者、反動分子、封建遺物、毒舌家、変節者、ドン・キホオテ、雑文屋、買弁、虚無主義者」と悪罵を浴びせられるが、「これらの、専ら魯迅をきめつけるために案出された嘲罵の数々は、・・・その多彩さによって、論争の激しさを暗示して」いる。かくて著者は、「論争は魯迅にとって『生涯の道の草』であったろう」と呟く。ここに、この本に込められた著者の願いがあるように思えてならない。
著者も「旧時代を攻撃しただけではなく、新時代をも恕さなかったのである」。著者は「彼の愛した同時代以後の青年から」の嘲罵を望んでいた。「学匪、堕落文人、偽善者、反動分子、封建遺物、毒舌家、変節者、ドン・キホオテ、雑文屋、買弁、虚無主義者」と罵られることを覚悟するだけではなく、大いに心待ちにしていただろう。だから「身を退く」なんぞ思いもよらなかったはず。若造ドモ、さあ来い、とばかりに筆を手に腕撫していたに違いない。“日本の魯迅”を目指して・・・。だが、その思いは虚しく裏切られる。
「彼の愛した同時代以後の青年」は嘲罵に代えて讃辞を並べたてた。「学匪、堕落文人、偽善者、反動分子、封建遺物、毒舌家、変節者、ドン・キホオテ、雑文屋、買弁、虚無主義者」と口汚く罵るのではなく、「独自の中国認識実践」(久野収)とか「権威主義を心底から嫌う/知識人の精神の脆弱さを糾弾」(市井三郎)とか、「生き方で示す道義」(加藤周一)とか、歯の浮くような讃辞で、その死を送った。死を前にした著者は、俺も魯迅のように論争を「生涯の道の草」にしたかったんだと慨嘆したのではなかったか。「彼の愛した同時代以後の青年から」のゴマスリやオベンチャラは、著者にとっては“屁”の役に立たないばかりか嘲笑以下の嘲笑、いや屈辱だったに違いない。60年安保に際し岸内閣に反対して公務員たる東京都立大教授を辞めた時、誰もが硬骨漢ぶりを讃えた。不惑の年でスキーをはじめれば、「足腰が達者だ」「がんばりがすごい」と持ち上げるのみ。そこまで俺をバカにするのかとの詠嘆、いや苛立ちが、この本の行間から間欠泉のように湧き出す。
著者は生涯を閉じる5年ほど前の昭和47年暮には「原則として中国問題はなくなった」と語り、長く続けていた小雑誌の『中国』を休刊し、マスコミとの接触を絶った。遂に論争を「生涯の道の草」となしえなかった己の不甲斐なさと同時代知識人に対する絶望が垣間見える。オベンチャラは軽蔑、ヨイショは無視なんぞより酷薄。悔恨の人生だったろう。
著者は旧制高校時代には日本浪漫派の保田与重郎の近くに在り、この本の原型である「魯迅」を脱稿した後の昭和18年に応召し、復員後に魯迅研究をテコに道学者臭の強い中国研究の克服に努める一方、モノ言う知識人として戦後論壇に特異な位置を占めた。
「真の文学は、政治に反対せず、ただ政治によって自己を支える文学を唾棄するのである」と語る著者は、「(魯迅の)この一人合点ということは、総じて彼の文章の特徴で、むしろ気質的なものと思う」のだが、良くも悪くも、著者もまた「一人合点」だった。 《QED》
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