【知道中国 232回】〇九・四・仲四
「漢奸裁判史」
 ―いま、「漢奸」たちの心の声を聞く―


  『漢奸裁判史 1946-1948』(益井康一 みすず書房 1977年)

 戦争が終わって30年目の昭和50年12月6日、東京は氷雨だった。日中戦争の時代に敢えて抗日の戦列に加わらず苦難の道を歩み、日本との和平に殉じた汪兆銘や陳公博らの慰霊祭が、その日、赤坂の西応寺でしめやかに行われたのである。「中国和平運動に殉じた諸烈士には墳墓だになく、慰霊の消息すら知らない」――哀々切々と響く祭文に、その場に参列していた著者は「強く胸を打たれた」。そして「改めて問う。『漢奸として処刑されたこの人びとは、そのことごとくが、真の漢奸であったのか?』と」

 著者は毎日新聞特派員として1939年から45年まで中国の戦場を駆け巡り、以後は漢奸裁判資料の収集と保存とに努める。漢奸裁判が行われた46年から48年といえば、国共両陣営が内戦で死闘を繰り返していた時期でもあり、中国では裁判資料保存どころではなかっただろう。著者は、後に国共両陣営から出された政治宣伝臭に満ちた“資料”を極力排し、極めて強い政治的思惑のなかで「漢奸」と断罪されていった人びとに対する当時の中国民衆の素朴で偽らざる感慨を汲み取ろうと、「漢奸」と断罪されるに至った彼らの人生を淡々と描きだす。それだけに「民族にとっての永遠の敵」との悪罵を全身に浴びながらも従容と死に臨む姿から、彼らの声なき真実の声が伝わってくるように思われるのだ。

 たとえば汪兆銘夫人の陳璧君の実弟で広東省長兼広東綏靖主任を務めていた陳春圃。裁判長から死刑の「宣告が下るや前歯で下唇をかんだ。と思うと、一声高く渇いた笑い声を響かせて、何もいわずに看守に引かれていった。」

 華北政務委員会委員長を務めた王揖唐は、誰もが「一身上の弁明に必死となった漢奸裁判の中で、ただ一人終始一貫『沈黙』の異例を押し通した人物」である。老衰の身を「籐椅子に横臥したまま出廷した。全身臭気紛々・・・身体のぐるりには無数の蝿が群れ集っていた。それは獄中の待遇がどんなものであるかを、物語る・・・新聞記事は、そうした彼を『老狐』と表現した」。公判中、「老狐」は沈黙を押し通す。衰弱が進み立ってすらいられない身を担架で法廷に担ぎ込まれた彼に死刑の判決が下る。だが、「判決を平然と聞き流し、薄ら笑いすら浮かべていたといわれる」。生ける屍となった彼は、民国37年(昭和23年)9月、死刑とは名ばかりの嬲り殺しにされた。「程なく巷に、『政府は腹いせに、わざと王揖唐をなぶり殺しにした・・・』との噂が立った。そうして国民政府は、悪評の矢面に立たされた。/そしてこの勝負は、結果的に王揖唐が勝ったと、評せられた。」

 日本軍が北京の紫禁城で降伏文書に調印した敗戦の年の10月10日、川島芳子は「二年間も彼女の隠れ家にボーイとして雇われていた」蒋介石配下の特務工作員の手で逮捕される。その日は双十節と呼ばれる中華民国建国祝賀の日だ。逮捕の日といい逮捕に至る経緯といい、用意周到で冷徹非情な中国政治の一面が顔を覗かせる。昭和23年3月、彼女は処刑されるが、「貴婦人のように、眉一つ動かさず、誇り高く死んだ」と最期の様子が伝えられるや、北京の「市民は、『三歳の時、日本人の幼女となり、日本人として育った以上、真の日本人なら誰でもするであろうことをしたまでだ』といって、彼女に心から同情した。」

 当時の北京市民の「日本人として育った以上、真の日本人なら誰でもするであろうことをしたまでだ」との素朴な感懐を、いま日本人として、どう受け止めるべきなのか。  《QED》