【知道中国 248回】〇九・六・仲二
「愛国教育基地探訪(その10)」
―やはり中国には「徳」と「賽」の両先生はいませんでした―

     愛国教育基地探訪(10)

    ――やはり中国には「徳」と「賽」の両先生はいませんでした

 今年は1919年の五四運動から90年の節目の年だ。ならば各地で90周年を祝うイベントにでもお目にかかれるはずと大いなる期待を抱いていたが、完全な肩すかし。天津でも唐山でも秦皇島でも遵化でも、それらしい雰囲気は微塵も感じられない。やっと見つけたのが旅行5日目のこと。承徳を間近にした高速道路料金所だった。

 横が5m、縦が40cmほどの赤い横断幕が風に捩れている。よく見ると黄色の文字で「記念”五四運動”九十周年」。その後は承徳市内や郊外の清朝関連観光施設を見て回り、翌日は南下して北京に向かったが、五四運動の「ゴ」の字も見つけることはできない。見落とした可能性も大いにあるだろうが、今年が90周年だというのに、五四運動が冷ややかに扱われている雰囲気だけは、それとなく伝わってくる。

 1840年のアヘン戦争に敗れ衰亡への道を歩みだした清朝において、官僚や学者たちは「富強」の道を模索し悪戦苦闘するが、悉くが失敗に終わった。孫文ら革命派は満州族の清朝を叩き潰し漢民族の国家に作り直しさえすれば、国力の”V字回復”は可能と主張した。かくて1911年の辛亥革命となり、翌12年元旦にはアジア初の立憲共和制の中華民国が目出度くも正式発足と相成った次第。だが漢民族による中国が誕生したが難問山積。内紛は一向に止む気配なく、列強の蚕食は限りなく、亡国への速度は増すばかり。

 そこで、数千年にわたって中国として続いてきたカラクリにこそ亡国への因子が仕組まれている。中国を支えてきた儒教というものが諸悪の根源であり亡国の元凶ではなかろうか、という考えが芽生える。いわば中国という存在に対する根元的な疑念こそ、五四運動を巻き起こした根本要因だった。それまでの儒教秩序によって支えられてきたような中国をキレイサッパリと清算しないかぎり、救国の大事業など夢のまた夢。だから五四運動のスローガンは「孔家店を打倒せよ」「中国には『徳』先生も『賽』先生もいない」。

 だが孔家店、つまり儒教秩序が破壊されてしまったなら、それに凭れかかることで権威を保ってきた旧勢力は既得権益を剥奪されかねない。かくて軍閥政権は五四運動を潰しに掛かった。なんとか生き延びた五四運動の命脈は民族起死回生の道を共産主義に求めた。だから五四運動は中国共産党の生みの親でもあったわけだ。もちろん、その背後に中国の共産主義化を目論むコミンテルンの謀略が渦を巻いてはいたが・・・。

 その時から70年が過ぎた1989年6月の天安門広場からも、「中国には『徳』先生も『賽』先生もいない」との慨嘆が聞かれた。儒教による一元的統治こそが中国を雁字搦めに縛り付け、遂にはアヘン戦争以来の民族滅亡の危機を生み出してしまったという五四運動の考えを突き詰めるなら、共産党による一元統治、一党独裁もやはり民族・社会にとって危険であり諸悪の根源とならざるをえず。かく考えればこその「異議」申し立てだっただろう。

 さて「徳」先生だが、フルネームは漢字表記で徳莫拉西(デモクラシー)。「賽」先生は賽因斯(サイエンス)である。いいかえるなら1919年から89年まで70年を経たにもかかわらず、民主と科学を否定し民衆を押さえつける点では、五四運動を潰した軍閥政権も天安門広場を鮮血に染めあげた共産党政権も同じ穴のムジナ、ということになってしまう。どうりで共産党政権が五四運動を華々しく顕彰するはずがないワケだ。(この項、続く)  《QED》