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【知道中国 249回】〇九・六・仲六
「愛国教育基地探訪(その11)」
―暇つぶしの達人たち― |
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愛国教育基地探訪(11)
――暇つぶしの達人たち
誰もが中国旅行で経験することだろうが、朝早く散歩がてら宿舎近くの公園にでも出向いてみれば、必ずや老・壮年の男女が群れ集い太極拳、剣舞、社交ダンスを楽しんでいる光景にでくわすはず。時に、なにやらド派手な衣装を身に纏い、原色の羽毛製扇をヒラヒラさせ不思議にリズミカルでコミカルな動きをみせる創作舞踊と思しき一団や、柵などに足を掛けて一人黙々と柔軟体操を繰り返すおじいさんやおばあさん・・・。そこで、中国では誰もが日頃から健康増進に努めていると感心すること頻り、ということになる。
秦皇島の北郊で万里の長城の東の守りを固める山海関に上った後、抗日戦争の勝利を記念したという碑を見るためにある公園に立ち寄った。碑の前はコンクリートで固められた広場。その先は大通り、そのまた先は商店街。いわば街のど真ん中。時間は真昼間。その広場に老・壮年の男女が集まり、社交ダンスの群舞である。普段着もいればシックなダンス用衣裳もいる。ステキな音楽は大型スクーターに据えられたスピーカーから流れてくる。1曲が終わると、誰かがスクーターの持ち主に新しい曲を注文する。確か1曲5元前後ではなかったか。改革・開放下の「自力更生」に違いない。彼は彼なりにカネ儲けの道を突き進んでいるのだ。同好の士が集い青天井の下で和気藹々と社交ダンス。見事なまでの和諧(調和)社会といいたいところ・・・だが、それにしても昼日中からダンスに興じている人々もさりながら、他人が楽しむ社交ダンスを所在なげに遠巻きに眺め立ち尽くしている“観衆”である。おそらく彼らに有るのは有り余る暇だけ。仕事は無いのだろう。
さて、社交ダンスも見飽きた。そこで目を転ずると、何人かの老人が左手に広げた本を持ち、右手に杖のようなものを下げ、スックと背筋を伸ばし後ろ向きにゆっくりと歩いている。しかも時々立ち止まり、本に目をやり一呼吸の後に右手を動かす。さて、なにをしているのかと近づいてみると、書法(=書道)の練習だった。左手はお手本、右手は杖ではなく筆、いや正確にいうなら竹の棒の先に筆の穂先状に拵えたスポンジがついた筆の代用品だ。しかも彼らの足下には50cm四方ほどのコンクリート製タイルが敷き詰められているから、まるで巨大な習字練習帳もどき。脇には水の入った小振りのポリ・バケツが置かれている。これが墨の代用。墨汁ならぬ水汁(?)ということになる。
先ずスポンジ製の穂先にたっぷりと水を含ませ、泰然自若と最初の筆を降ろす。白い紙に墨痕鮮やかというわけにはいかないが、それでも大振りのゆったりした文字がコンクリート製タイルいっぱいに書き上げられてゆく。こちらが日本人だと判ると、直ちに「中日友好」と4文字を書いて日本人歓迎の意を表そうとする。その当意即妙ぶりと見事な筆致に感嘆するばかり。だが、なにせ墨痕ならぬ水痕の悲しさ。陽の光にタイルが温められ、水を含ませ筆を継いで次に筆を下ろし「永遠」と書く頃には、先に書いた「中日友好」の文字は蒸発して消えている。それでも構わず「不朽」と続ける。「中日友好永遠不朽」。
そこで数多の公園批評家が登場し、“作品”の良し悪しを盛んに批評することになる。
ダンス愛好家、観衆、書家、批評家――彼らが公園に出向く目的は体力作りではないはず。やはり彼らは集まるために集まっているのだ。なんとか退屈をゴマカそうと、有り余る時間を浪費するための創意工夫の数々。究極の暇つぶしとしか思えない。(この項、続く) 《QED》
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