【知道中国 255回】〇九・七・初七
愛国教育基地探訪(16)
―「牛皮癬」の向こうに浮かんだ文革の残影

      ――「牛皮癬」の向こうに浮かんだ文革の残影

 承徳での立ち話。道路に書かれた「牛皮癬」に突飛なことを考え付くものだと感想を話すと、年の頃なら紅衛兵世代と思しき男が道路の牛皮癬を指差しながら、「文化大革命がはじまり、大字報を街の壁という壁、電柱という電柱に貼りまくった頃を思い出す」と話しはじめた。誰でもいいから敵を作って、そいつに思いつく限りの悪罵を浴びせる。「毛主席の敵」「資本主義の道を歩む中国人民の敵」と過激な批判を書いて貼って、書いて貼って・・・やがて貼る場所がなくなった時、大字報を道路にまで貼った。若い頃の彼が住んでいた地方の冬は相当に厳しかったらしい。道路に置いた大字報の上に水をブチ撒ける。たちどころに凍った氷に陽光が当る。キラキラと輝く氷の下の大字報は綺麗なものだった。下手な字も光り輝いて見えたというが、話半分の半分としても興味深い思い出だ。

 毛沢東によって万能の大権を与えられ、「世界は昇る朝日のような君たち若者のものだ」と煽てあげられ、「造反有理」「革命無罪」のお墨付きを押し立てて紅衛兵が暴れ放題に暴れていた文革当初の写真を思い起こすと、確かに大字報は街の至るところ、大袈裟でなく空と水面以外、紙の貼れる場所という場所に貼られていたようだ。とするなら大字報もまた一種の牛皮癬であり、文革はまた牛皮癬革命でもあったといえるだろう。文革当時、日本では大字報を壁新聞と訳していたが、現代の牛皮癬が広告やら宣伝といった情報伝達の範疇を超えた摩訶不可思議な雰囲気を醸しだしているように、やはり大字報は壁新聞などといった生易しいものではない。あれを壁新聞と訳したところに、文革を仕掛けた毛沢東の意図や紅衛兵運動に突っ走った若者の思いに対する誤解が生じたようにも思える。

 おそらく毛沢東は大字報という文革版の牛皮癬で全国を埋め尽くし、人々の思考を狂わせ既存の秩序を制御不可能なまで混乱させ、劉少奇らによって奪われてしまった国政の大権を奪い還そうとしたのではなかったか。毛沢東にとって、大字報は秩序破壊の手っ取り早く安上がりでな強力な武器だった。一方の紅衛兵からするなら、大字報は既存社会への異議申し立てができる絶好の機会だった。なによりも世の中に向けて心の叫びであり、不満のバクハツであり、一種の「エイじゃないか運動」だったはずだ。

 大字報は無気質な活字で書かれていたわけではない。活字は確かに情報を伝えるが、書き手の思いは活字の無機質さに途方もなく薄められてしまう。だが手書きは違う。文字の巧拙は別に、どんな書体、文字の大きさや筆圧、文字配置のバランスによって、書き手の思いが伝わってくる。毛沢東の筆跡をみていると奔放不羈・傍若無人・剛毅不遜の、蒋介石のそれからは律儀だが頑固で融通の利かない性格が、それぞれに浮かんでくるだろう。

 つまり大字報が飽くまでも手書きの大きな文字にこだわった理由は、紙による激烈なアジテーションを目指したからだ。我が手を動かして書くわけだから、書かれた文章にも書き手の熱い思いが込められないはずがない。文字が下手なら下手なりに、手書きの文字は書き手の思い、情念を伝える。それに激越な内容が加わるわけだから、大字報のアピール度はいや増しに増す。自己主張の激しい彼らが心の丈をぶちまけるには最適の手段だった。

 こう考え現代の牛皮癬に目を転ずる。落ち着きのなさそうな書体から感じられるのは、豊かさとは程遠い生活を強いられた庶民たちの焦りであり、悪足掻きだ。《この項、続く》  《QED》