【知道中国 259回】〇九・七・念一
愛国教育基地探訪(18)
―「斃傷日軍」総計「五千余名」のナゾ


 承徳から北京に向かうルートの途中に、塞北から北京への道を扼す戦略上の要衝として古くから知られる古北口がある。北京の北方に在り北京の水ガメ知られる密雲水庫に流れ込む潮河が、この街の外れを北から南に流れる。だから万里の長城はここで途切れる。つまり潮河の川幅が長城の建設を阻んでいるというわけだ。そこで攻めるに易く守るに難い。

 攻撃側としては、ここを破りさえすれば北京への怒涛の進撃が可能となる。一方、守備側としては、この地の防備を固め敵の攻撃を食い止め押し返すことが、北京防衛の要諦。かくて我が川原旅団は長城線突破のため古北口を目指し南下した。一方、中国側は防衛線を敷いて備える。昭和8年3月10日午前7時、戦端が開かれた。熱河作戦の一齣である。

 この戦いを中国側は「長城抗戦古北口戦役」と呼ぶ。古北口の街外れ、北京への幹線道路から細い脇道を歩いて進むと狭い広場にでるが、そこに長城抗戦古北口戦役記念碑がひっそりと建てられていた。ここもまた愛国主義教育基地の1つだ。縦1.5メートル、横3メートルほどの黒御影石製。コンクリートの台座に乗せられ、赤い柱の東屋風の屋根で蓋われている。1997年3月に中華人民政治協商会議北京市密雲県委員会が建立している。

 碑文によれば、戦闘開始は3月11日朝。以後、「血戦三昼夜」に及び「日軍二千余」を死傷させる。だが通信が途絶し後続部隊の支援を得られず、3月13日には古北口放棄のやむなきに至る。次いで4月21日、日本軍は中国側の南天門陣地に猛攻を加えた。中国側の奮戦防御が「八昼夜」に及び、「日軍三千余」が死傷。5月10日、日本軍は総攻撃に移る。そこで「(中国軍の)十七軍将士は力戦奮闘、全滅の危機に臨み大小新開嶺陣地に撤退。十一日に同地を死守し、十五日には密雲に移動。古北口の戦役は二ヶ月に達し、劣悪な武器を手に数倍の敵を迎えながらも、日軍五千余名を斃傷させる。抗戦将士の八千近くが斃れ傷つく」。以後は「将士は土(クニ)を守らんとして倭と抗争す。国のために躯(ごたい)を損(ささ)げ長城を血に染める。忠骨を埋め青山(そこく)を幸いにせんす。英魂を慰めれば、緑水(だいち)は栄(かがやき)を増す」などと、彼ら得意の大仰な表現が続く。

 この碑文によれば、3月11日から2ヶ月ほどに及んだ戦闘で「日軍二千余」に「日軍三千余」を加えた「日軍五千余」、つまり日本側の死傷者は5000人余ということになる。一方、中国側の「抗戦将士の八千近くが斃れ傷つく」・・・彼我の死傷者の数は5000対8000。中国側にすれば、もちろん勝利ではないが、かといって決定的な敗北でもない。奮戦勇戦の末に惜しくも敗れたといった雰囲気を醸しだそうという思いが、碑文から読み取れる。

 これに対し日本側の戦史をみると、中国軍は碑文のいうように「劣悪な武器」などではなく、高射機関砲や高射機関銃など優秀な火器を備え、機材・軍需品も豊富な部隊であり、当時の中国側最高指導者である蒋介石や張学良が最善を尽くして配備したものとなっている。さらに日本側の損害だが将校・准士官・下士官・兵を合わせ戦死21人、戦傷73人。つまり双方合わせても100人に達していないのだ。よしかりに、これを最初の「血戦三昼夜」に限った数と考えても、碑文の主張する「日軍二千余」の20分の1にも及ばない。

 誤差というには余りにもかけ離れた数字だが、94人対「日軍二千余」の違いは何に拠るのか。これが愛国主義教育の実態なんだ・・・フーン、なるほど。(この項、続く)  《QED》