【知道中国 261回】〇九・七・念八
愛国教育基地探訪(19)
―まぼろしの中華人民政治協商会議

 それにしても不思議なのが長城抗戦古北口戦役記念碑を建てた組織の中華人民政治協商会議北京市密雲県委員会という表記だ。政治協商会議は略称を政協とか全国政協といい、正式名称は中国人民政治協商会議のはず。なぜ“中国人民”とすべきを“中華人民”としてあるのか。中華人民政治協商会議が新たに組織された。元の文章を書いた人物が誤記してしまった。はたまた石に刻む段階で職人が彫り間違えた。いや、そんなことはあるまい。かりに間違えたとしたら、それが判った段階で石碑を取り換えるなりして正せばいいだけのこと。中国ではなく中華としたところに、何らかの意図があるような。

 政治協商会議の前身は、1946年1月に国民党や共産党に他の民主諸党派などが参加して重慶で開かれた政治協商会議(旧政協)。ここで和平建国法案などを定めたが国共内戦で破綻。49年6月に新政治協商会議準備会を設立させ、同年9月に中国人民政治協商会議と改称し、同月後半に第1回全体会議を開き、国家最高権力機関としての全国人民代表大会を代行し臨時憲法ともいえる人民協商会議共同綱領を採択している。以後、毛沢東の権力が確立し共産党独裁が徹底するに従い、国政上は“盲腸的存在”に。もっとも最近は些か権威を盛り返しつつあるようだが、いずれにせよ政治協商会議に結集された全国人民の総意が中華人民共和国を建国させた。だから形式上は中華人民共和国の生みの親なのだ。

 古北口で日本軍と戦ったのは共産党軍ではなく明らかに蒋介石軍。愛国主義教育としては抗戦を讃えたいが、蒋介石軍とは刻めないし刻みたくない。だが戦った兵士は正真正銘の中国人民。ならば共産党北京市密雲県委員会ではなく、政治協商会議北京市密雲県委員会にしておこうという魂胆なのだろう。まあ、その辺のカラクリは彼らの常套手段。「中国を侵略したのは一部の日本軍国主義者であって、大多数の日本人民もまた日本軍閥の犠牲者だ」といった「邏輯(ロジック)」と五十歩百歩といったところ。

 共産党軍は抗戦しなかった。もっとも古北口で戦闘が行われた昭和8(1933)年当時、共産党は遥か南の江西省や福建省を逃げ回っていたのだから、当たり前といえば当たり前のこと。じつは蒋介石軍による共産党に対する第4次包囲作戦は1932年6月で、第5次包囲作戦は33年の10月。毛沢東が軍事指導権を奪還したといわれる遵義会議が35年1月。日中停戦条項を盛り込んだ梅津・何応欣協定が結ばれたのが35年6月。紅軍主力が蒋介石軍の追撃を振り切って命からがら延安(呉起鎮)に逃げ込んだのが35年10月。前年10月の出発時の10万人は1年で3千人に超激減。ハンニバルのアルプス越えの大遠征に喩えられ、後に「大長征」と喧伝されるが、実態は「集団逃避行」の一歩手前。つまり古北口戦役当時、共産党は日本軍に対し手も足もでなかった。いや出したくても出せなかった。

 愛国主義教育は至上命題。古北口での抗戦を記念せよ。だが共産党はなにもしていない。そこで生まれた苦肉の策が中華人民政治協商会議といった幻の組織名――あれこれ考えたが、とどのつまりは抗戦記念碑とはいうものの、建てたら建てたでそのまんま。後は野となれ山となれ。さほどの関心を持たない。ならば碑文を取り違えていようが、お咎めは一切なし。それにしても愛国主義教育を徹底すればするほどに、「抗日戦争」における共産党の不在が露見することになると思うが如何でしょう。ホンの老婆心ですが。(この項、続く)  《QED》