【知道中国 262回】〇九・七・三一
―伊藤律先生、北京幽閉二七年・・・辛苦了


   『伊藤律回想録 北京幽閉二七年』(伊藤律 文藝春秋 1993年)

 昭和55年9月、成田に降り立った伊藤律の幽鬼のような姿をテレビで見た時、まさに生きた化石としか思えなかった。北京で生きていたのだ。これが驚かずにおられようか。

 「(19)五一年秋、志田が言った。『北京のオヤジ(徳田)が君に来てほしいと言ってきた。行くか否か君自身が決定してよい』。私は熟考の末『行くよ』と答えた」。この瞬間、伊藤は日中両共産党の凄まじい権力闘争、陰々滅々たる主導権争いに巻き込まれることを運命づけられてしまう。なんたって共産党では、権力闘争至上主義者だけが生き残れる。

 当時、「人民中国の首都北京西郊にある日本共産党在外代表部(俗称「北京機関」)」は、「四つの二階建てビルが約五○メートル間隔で並び、周囲は鉄条網を張った高い塀で、門はひとつ。公安部兵隊が守備してい」た。そこには、徳田球一をトップに、徳田を追い落として委員長になりながら最後はスパイ容疑で除名処分を受けることになる野坂参三、徳田の女婿だが結果として徳田を裏切り野坂に加担することになる西沢隆二、朝日新聞労組出身の聴濤克己、かの高倉テルなどで構成された日本共産党地下司令部が置かれていた。

 1952年12月24日、入院中の徳田に代わって組織を指揮する野坂の「向こう(モスクワ)から重要なことを言ってきた。緊急会議を開く」との指令で、徳田を除く幹部がここに集まる。その席には中国共産党の対外交渉部門の中連部から副部長の李初梨も参加するが、野坂は「問題が重要なので、中共中央を代表して李初梨さんに同席してもらう」と断った上で、「野坂は一枚の紙片を取り出しながら言った。『これはソ共中央のわが党への勧告で、中共中央の同意を得たものだ。名目は勧告だが実際は指令である。違反はできない』。ソ共中央とは明らかにスターリンを意味した。そして野坂は手にした紙片をちらりと見てから宣告した。『伊藤律は節操のない人間であり、政治局はその証拠をもっているはずである。直ちにいっさいの職務から切り放し、問題を処理せよ』」。かくて伊藤は日共・ソ共・中共から晴れてスパイと“公認”され、「北京幽閉二七年」がはじまる。オ目出度い限りだ。

 じつは日本共産党の指導をめぐって徳田と野坂・宮本の間で激しい暗闘が繰り返されていた。もちろん伊藤は徳田派。これに中共党内の権力闘争が重なったことで、この派閥対立は複雑さを増す。「おれはここでは孤立だ。中連部の連中は野坂・宮本好みだから。だが、毛さんら首脳はおれを支持してくれているから」と徳田が伊藤にいって聞かせているように、毛沢東(徳田・伊藤)対中連部(野坂・宮本)という図式だったらしい。中連部のトップが、長征という名の逃避行において毛沢東が軍指導権を奪還したとされる遵義会議で毛沢東支持に寝返った元ソ連留学生の王稼祥。どうやら徳田・伊藤対野坂・宮本の戦いは、毛沢東対王稼祥の代理戦争ということになる。ならば日共は、戦後の出発時からソ共中央と中共中央の“操り人形”にすぎなかった。いや、マッカーサーの日本占領を「解放」と歓迎した点を加えるなら、米・ソ・中のポチだったのだ。「自主独立」が聞いて呆れる。

 伊藤は北京の権力闘争、日中両共産党の対立の余波に直撃されながら、悲惨極まりない「秘密監禁」の27年を生き抜く。北京は伊藤を生かしたまま日本に返す。伊藤が戦前・戦後の日共の恥部・暗部を知り尽していただけに、宮本の牛耳る代々木への無言の圧力となっただろう。それにしても伊藤は貧乏クジを引いた。ハテ、自業自得というものか。  《QED》