【知道中国 264回】〇九・八・初七
―これぞ役者の生きる道

    『梅蘭芳年譜』(王長発・劉華 河南大学出版社 1994年)

 ある人物の生涯を事細かに記録し、歴史的に位置づけようと年譜は編まれる。中国人は、じつに年譜が好きである。

 梅蘭芳(1894年から1961年)といえば誰もが知っている京劇の大看板だが、おそらく日本で中国語音で呼ばれる唯一の中国人だろう。日本では毛沢東は「モウ・タクトウ」で蒋介石は「ショウ・カイセキ」。胡錦濤は飽くまでも「コ・キントウ」。余程のひねくれ者でもない限り「フー・ジンタオ」とは呼ばない。ましてや「マオ・ズートン」やら「チアン・チエシー」では、毛沢東や蒋介石が醸しだすイメージにそぐわない。だが梅蘭芳だけは「バイ・ランホウ」ではない。誰が何といおうと、やはり「メイ・ランファン」なのだ。

 この年譜は梅の生涯を「第一階段 清朝時期(1894~1911)」「第二階段 中華民國時期(1912~1948)」「第三階段 中華人民共和國時期(1949~1961)」に分け、詳細に追っている。だが、ここで興味深いのは1994年に出版されたにもかかわらず、全ページが現行の簡体字ではなく繁体字で通称される正字で記されているということ。それだけに、記述内容までが落ち着いて見え、年譜に威厳を持たせているようで、なんとも不思議な感じだ。

 試みに「1949年(己丑)56歳」の頁を開いてみると、「春、上海解放前夕」には共産党は梅が信頼する演劇人に梅の自宅を訪問させ上海で新中国の誕生を迎えるよう説得している。つまり共産党政権に合流しなさい、という統一戦線工作である。もちろん梅は「欣然同意」。じつは国共内戦は戦場で華々しく戦われていただけでなく、一方で中国を代表する人物、いいかえるなら内外に大きな影響力を持つ人物を取り込むための暗闘も展開されていた。たとえば留学先のアメリカからプラグマティズムを持ち帰り中国に広め新文化運動を起こし、学界の垣根を飛び超え政治・外交にも大きな影響力を発揮することになる胡適は、毛沢東の呼び掛けを振り切るかのように蒋介石と共に台湾へ。役者ではないが、梅の芸に華やかな改良を加え、梅の至芸を世界に認めさせた最大の功労者の斉如山も台湾へ。

 だが多くの京劇役者は梅とおなじように共産党の呼び掛けに「欣然同意」した。それが後の文革で自らの不幸を招くことになったのだが・・・。文革はまだまだ先のこと。

 建国直前の49年7月2日から19日まで、まだ北平と呼ばれていた北京で「中華全國第一次文學藝術工作者代表大会」が開催され、梅は会場で「毛澤東、朱徳、周恩来等領導人」と会見。共産党からするなら、まさに統一戦線工作の総仕上げ。成功祝賀ということだろう。大会成功を祝って「35個文藝團體」が芝居を演じているが、梅もまた十八番の「覇王別姫」を引っさげて舞台に立つ。祝賀行事に京劇はなくてはならないものだった。

 その日、白の開襟シャツの毛沢東は客席一階の前から5列目の真ん中の席に座り「興致勃勃」と梅の至芸を堪能した。芝居が終わると毛は他の客と共に席から立ち上がって拍手に継ぐ拍手。そこで梅は「舞台に出た途端、毛主席を認めました。本当のことをいいますと、この演目を1000回以上も務めていますが、どの舞台も今日ほどは心地よく務められたことはありませんでした」と、一世一代のヨイショ。強力なパトロンを得た瞬間である。新しい皇帝に恭順の意を示す。新しい時代を生き抜くためには致し方のないことだろう。

 時代に翻弄されながらも権力に擦り寄る役者の真骨頂が、行間に顔を覗かせる。  《QED》