【知道中国 270回】〇九・八・念五
愛国教育基地探訪(23)
―薄化粧の女性ゲリラ戦士・・・社会主義リアリズムは何処へ


 土埃の舞う抜け道を過ぎ、本通りにでた車は東に進む。相変わらず渋滞が続いたが、やがて最初の目的地・通州に到着。通州といえば天津と白河で結ばれる一方、遥か江南の杭州に発する大運河を運ばれたてきた南方からの貢糧を陸揚げし北京に輸送するための中継所でもあり、古来、北京の喉元を押さえる要衝だった。近代に入って北京・天津間が鉄道で結ばれたこともあり時代に取り残された街となったが、1935年11月、親日派政客の殷汝耕を政務長官に冀東防共自治委員会(後に自治政府)が置かれたことで注目を集める。

 とりわけ日本人にとって忘れてはならないのは、盧溝橋事件発生直後の昭和12(1937)年7月29日に起こった「通州事件」だろう。その日午前3時、殷長官が最も信頼を寄せていたといわれる保安隊教育導総隊を中心に3000人ほどの兵士が兵乱を起し、約100人ほどの日本守備隊に攻撃を仕掛けてきた。30日には飛行隊や萱島部隊の救援の結果、治安回復に成功する。だが、市街に居住していた非戦闘員である日本人居留民380余人中120名余りを残し惨殺される。ことに旅館・近水楼では主人夫妻・従業員・宿泊客を含め10数人が襲われ、凄惨な情況を呈した。(以上は『戦跡の栞』陸軍恤兵部 昭和13年)

 原因につき日本軍航空機保安隊兵舎誤爆への報復、国民党軍による保安隊寝返り工作、愚昧な保安隊による犯罪、親日政権転覆を狙った政治工作による武装蜂起など諸説ある。だが、殷親日政権の内実を冷徹に分析・判断しないままに友好を掲げるだけで妄信してしまう日本人のワキの甘さ、昔から「好鉄不当釘 好人不当兵(いい鉄は釘にならない。いい人は兵ならない)」といわれる中国兵士への誤解も、事件の底流にあったように思える。

 車は大通りを折れ直進する。近水楼跡地に立てられた通州賓館を左手にしばらく進み右折。2メートル幅ほどの路地に面して冀東防共自治政府が置かれていた三教廟があった。祭日以外入場禁止とのことで、いま来た道を引き返えし通州駅を経て当時の激しい戦闘が行われたと推定される南門地区へ向った。現在、そこは中倉街道と呼ばれ、入り口に立てられた掲示板の「民族特色街区簡介」を読むと、同地区には回族、満族、蒙古族など11の少数民族の総計7万人ほどが居住し共に中華民族の一員として和気藹々と日常を送っているとある。うち回族は3千数百戸・8000余人とのこと。行き交う人々の身なりや街の佇まいは、いままで通った街の姿よりは数段貧しげ。一瞬、少数民族のゲットーにも思えた。

 通州では北京市国防教育基地と名づけられた施設も参観。1998年というから江沢民主導の反日教育最盛期の建設を物語るかのように、建物正面玄関の壁にはデカデカと江の筆で中国民兵兵器装備陳列館と記されていた。正面玄関を入ると、薄茶色の巨大なレリーフが目に入る。戦争勝利を祝う老若男女の無数の民兵のど真ん中に、人民服の毛沢東が後ろ手で立っている。この毛沢東が江沢民に酷似して見えたが僻目、いや目の錯覚だったろうか。

 鹵獲・接収された日本軍の武器が所狭しと陳列されていたが、奇妙だったのは実物大の人形を使って民兵ゲリラの活躍を展示したコーナーだった。小船の舳先に立った女民兵が日本軍掃討に出撃する様子が再現されているが、細身の彼女は小顔で長い睫毛に薄化粧。どこぞのマネキン人形を転用したようだ。大袈裟なまでに雄々しくもある社会主義リアリズムの片鱗も感じられない。そんなもの、今の時代には通用しないのだ。(この項、続く)  《QED》