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【知道中国 276回】〇九・九・初五
―漢族による《熱帯への進軍》のいま |
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8月初旬、広西壮(チュワン)族自治区にあり、中国南部の要衝の1つである南寧市で中国、ヴェトナム、マレーシア、シンガポール、フィリピン、インドネシア、ブルネイの各国大臣クラスの政府要人が参加し「泛北部湾経済合作論壇」なる国際会議が開かれた。伝えられるところでは、①世界規模の金融危機への関係各国の取り組み、②参加7ヶ国による合作の可能性、わけても「中国-ASEAN自由貿易区」構想に基づく「次区域(サブリージョナル)」合作への貿易投資・資源開発などの具体的行動、③中国とASEANを結ぶ要としての「泛北部湾」の位置づけ――などが話し合われたとのことだ。
泛北部湾とは聞き慣れない名前だが、広西沿海、広東省の雷州半島、海南島西側半分、それにヴェトナム北部に囲まれた13万平方キロの海域を総称し、2006年に上記7ヶ国によって「泛北部湾次区域経済合作組織」が作られている。今次国際会議は、同組織の活動の一環ということだろう。
これら一連の活動から、泛北部湾を要にして東南アジア、ことに海洋部東南アジアとの結びつきを強めようという中国の意図がより強く感じられる。すでに中国は一国単位としてミャンマーを経由し、いくつかの国を横断する仕組みとして湄公(メコン)流域の数カ国を束ねた「大湄公河次区域経済合作組織(GMS)」をテコに東南アジアへの進出を着々と進めてきたが、これに泛北部湾次区域経済合作組織が加わり、「南寧=シンガポール経済回廊」を南北に貫通させることで、東南アジアとの結びつきは重層化することになる。
以上を中国の側から眺めてみると、右翼にミャンマー・ルート、中央にメコン河川ルートと南寧=シンガポール経済回廊、左翼に泛北部湾ルート――陸上と国際河川と海洋とを介しての東南アジアとの紐帯強化を目指す大きな構図が描ける。さながら中国という巨大な親鳥が大きな翼を広げ、東南アジアという雛鳥を内懐にスッポリ包み込むようだ。
太古の昔、黄河中流域の黄土高原に出現した漢族は長い年月をかけて四囲に向かって拡大を続けた。秦、漢など古代王朝が覇を競った漢中平原から長江流域に進出していった漢族は、時に周辺の少数民族を熱帯地方に駆逐し、時に彼らを漢化しながら南下する。一連の南下を指して漢民族の《熱帯への進軍》と形容するが、1949年から30年続いた毛沢東の時代、じつは進軍は休止していた。というのも、この間、毛沢東は中国国民を「竹のカーテン」の内側に閉じ込めていたからである。ところが78年12月、鄧小平は改革・開放路線に踏み出し「さあ、どこへでも御出でなさい」とばかりに「竹のカーテン」を取り払う。かくて人々は外の世界に向けて動き始めたのであった。
90年代初頭、「走向東南亜(東南アジアに向かえ)」のスローガンを背景に、李鵬首相(当時)が「西南各省は協力し、改革を進め、開放を拡大し、東南アジアに向かえ」と叫んだのも、その時から10年ほどが過ぎた2002年に江沢民主席(当時)が「走出去(世界に飛び出せ)」と大号令を下したのも、鄧小平路線のなせるワザであり、当然の帰結だ。
中国が進めている東南アジアとの重層的な結びつきを、開かれた中国が進める国際協力の一環といった類のお人よしで今風な見方で曲解してはならない。やはり、冷徹な歴史的視点から捉え直してみてみるべきだろう。だからいま、中国が自らの民族的DNAと歴史の趨勢に従って《熱帯への進軍》を進めている事実を、努々忘れてはならない。 《QED》
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