【知道中国 277回】〇九・九・初八
愛国主義教育基地探訪(25)
―延安への道は若者を革命的に鍛えたハズ・・・なんですが

 いまではジェット機に乗れば北京から1時間20分ほどで延安に到着し、外国人であろうが毛沢東革命への血の滲むような“苦労の跡”を、物見遊山気分で歩き回れる。これも改革・開放政策の恩恵というもの。だが延安が革命の聖地と崇め奉られ、まるで回教徒がメッカを仰望するかのように、若者が延安に恋焦がれ熱狂していた文化大革命の時代は、こうではなかった。なにしろ苦労するほどに毛沢東革命の精神に近づけると妄信していたわけだから、延安への道はいやがうえにも苦労を積み重ね、若者たちは自らが嘗めた苦難を誇る。「生得偉大、死得光栄(雄々しく生き、栄光に死す)」――自己犠牲こそが若者の革命精神を鍛造すると、毛沢東は嘯いていた。思えば、若者は純情無垢で猪突猛進が過ぎた。

 毛沢東の革命物語にとっての最大のハイライトともいえる長征に倣い、当時の若者は延安への道を「長征」と呼んだ。そこで、ある若者の「北京――延安 徒歩長征日記(1966年11月15日――1967年1月22日)」を紐解いて、“延安巡礼”の道を追体験してみたい。

 この日記の著者は男15人女10人からなる「北京延安長征隊」の1員として66年11月15日朝7時、学校の正門を発って西を目指す。10時25分に盧溝橋を過ぎ、4時15分に北京西郊の良郷着。9時間で80里(1里=500メートル)を歩く。夜、「聖地延安の輝かしい光景が心に明かりを点し、毛主席の『暴風荒波に立ち向かい鍛錬せよ』との若者への教えに励まされる」。2日目は40里歩くが、早くも「足裏には血豆ができ」、「皆の疲労は“極点”に達した」。その後、保定を経て向かった石家荘では、毛沢東が革命に対する功績を大いに讃えたべチューン医師の墓に詣でる。17日目には「長征途上、困難は多く、闘争はさらに多い」と意気揚々と記す。28日目に農業部門での自力更生の模範とされた大寨に寄り道。「毛主席が派遣した客人」として歓待され、農民から副首相にまで上り詰めた大寨指導者の陳永貴の講話を聞く。べチューン医師の墓参も大寨見学も、当時としては長征途上の“定番コース”だった。56日目に黄河を渡って陝西省入りし、延安着は59日目の67年1月12日。余程興奮し頑張ったのだろう。この日は全行程最長の110里の強行軍である。

 遥か前方に、聖地延安の象徴といえる宝塔山がライトアップされた姿を浮かび上がらせている。一行の誰もが歓声を挙げた。若者は興奮気味に「いまや長征の最後の一瞬であり、勝利は目前となった。あの灯りは毛主席が指し示してくれた道標だ」。翌日から零下19度の厳寒のなかを棗園、楊家嶺、抗日軍政大学址、党中央が置かれていた鳳凰山と歩き回り、「延安への理解が深まるごとに、毛主席と毛沢東思想の偉大さを痛感する」と綴る。学校における文化大革命の徹底貫徹を誓い、65日目に「延安再見」。以後は、西安に向けて徒歩で南下し銅川で列車に乗り込み、西安経由で北京に戻って行った。

 健気にも日記を「終生の奮闘目標は共産主義であり、未来は共産主義に属す」と結ぶ。

 ――さて延安空港を後に市街に。かつて新華社などが置かれていた清涼山を右手に延河沿いを上流へ。延安共産党学校関連施設到着。革命史学習ではなく、付設宴会場での昼食が目的だ。誰もが商売に勤しみ結婚式の宴会だって引き受ける。紅い衣裳の新婦が甲斐甲斐しくも宴会の後片付けの最中だった。テーブルの上にも床にもビンが転がり残飯が散乱している。これが若者の長征から40余年後の延安の「未来」なんです。(この項、続く)  《QED》