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【知道中国 283回】〇九・九・念二
愛国主義教育基地探訪(27)
―文革なんて・・・なかったことにしませんか |
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最初に訪れたのは中央大礼堂、中央弁公庁楼、中央宣伝部、中央組織部、秘書処、中央統戦部に加え当時の最高幹部の住居があった楊家嶺だ。彼らの個人的住まいは黄土層を掘った横穴式の窰洞と呼ばれる黄土地方特有のもの。毛沢東の家に向かって左隣が朱徳で、その左の一段下がった層に周恩来、毛沢東から道一本隔てた右手劉少奇――当時の党内序列を想像させる配置だ。血気盛んな若者が押し寄せた文革時、はたして劉少奇宅はどのように扱われたのか。なんせ当時の劉少奇は「資本主義の道を歩む中国のフルシチョフ」であり「悔い改めない実権派の頭目」。だから若者のなすがままにさせていたら、跡形もないほどに破壊されたはず。だが、現に今でも住めるような状態に保存されている。ということは文革のツメ跡を修理し旧に復したのか。文革当時、この地区への若者の立ち入りを厳禁し革命旧址として護ったのか。そういえば朱徳もまた文革では批判されていたはず。
――つらつら考えるに、文革の加害者と被害者の住まいが何もなかったかのように並んで公開されているということは、「文革はなかったことにしましょうや」とか「色々と不幸がありましたが、チャラということで」といったメッセージにも受け取れる。
最初の見学は中央大礼堂だった。説明によれば共産党が使う以前は西洋人宣教師が建てた教会だったという。石とレンガで作られていて、詰め込めば500人ほどは収容可能だろうか。じつは毛沢東が政敵を葬り去り独裁的権限を掌握したことを共産党として公式に認めた中国共産党第七次回全国代表大会(45年4月から6月)の会場が、この大礼堂である。この大会で、毛沢東という指導者個人の思想ではなくマルクス・レーニン主義と同じように中国共産党が依拠しなければならない基本原則として「毛沢東思想」という考えが確立し、党規約に書き込まれ、固有の政治的意味を持つようになった。この時を境に毛沢東は多くの指導者のなかの“抜きんでた1人”ではなく、唯一絶対者としての地位を確立する。いいかえるなら毛沢東は共産党のすべての行いを“解釈し決定する権限”を手中に納めたことになる。国共内戦から大躍進を経て文革に至る時代を毛沢東が“絶対無比の暴君”として振る舞ことができたのも、この大会があったればこそ。以後、党規約は変遷を繰り返すが、毛沢東思想と共産党の関係は変わることがない。現在もなお・・・。
建物の中に入る。床はなだらかな下り坂になっていて、その先に一段と高い舞台がしつらえてある。天井を支えるアーチ状の柱に何本かの五星紅旗が挿してあり、舞台の上には長い演壇が置かれ、その奥の壁には前が毛沢東、後ろが朱徳の左側を向いた大きな顔が。その上には右から左に赤地に白で「中國共産黨第七次全國代表大會」。その上には同じように白い壁に赤く右から左へ「在毛澤東的旗幟下勝利前進」。その下に右からスターリン、レーニン、エンゲルス、マルクスの左向きに重なった横顔が並び、大会当時を再現している。
ここが毛沢東独裁の原点だと隣に立つ40歳がらみの咥えタバコの男に話しかけると、「だからなに・・・」。紅軍兵士の貸衣装ではしゃぎ回る若者の一団。携帯電話に向かって大声で喚きたてるおばさん。歓声と怒声が高い天井にグワーンと反響し騒然とした雰囲気。どこをみても“学習”などといったオ固い姿勢は感じられない。誰もが「何でもみてやれ、楽しめ」といった様子。嗚呼、《革命》は遠くなりにけり・・・である。(この項、続く) 《QED》
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