【知道中国 284回】〇九・九・念四
―過ぎ去りし若き日の狂騰を思い起こさば・・・

      『走過青春』(黒明 中国工人出版社 1997年)

 昔、ケルファーレン公国にある港街・ハルメーンが凶暴な怪獣に襲われ壊滅の危機に瀕するや、偉大な英雄楽士・ローウェルが現れ怪獣の前に立つ。彼が奏でる神秘的な笛の音に誘われるかのように怪獣は沖を目指し遂には深い海の底に消え、街は救われた――凶暴な怪獣を紅衛兵、神秘的な笛の音を「上山下郷」のスローガン、ローウェルを毛沢東に見立てるなら、ハルメーンの笛吹きという寓話は1969年前後の中国に重なろう。

 紅衛兵に「造反有理」「革命無罪」という特権を与え最大の政敵である劉少奇一派を屠り去り権力奪還に成功したものの、いつのまにか先鋭化した紅衛兵過激派は毛沢東にまで批判・造反の刃を揮うようになる。まるでハルメーンを壊滅の危機に陥れた怪獣だ。このまま放置していたら、毛沢東の権力基盤は脅かされ瓦解しかねない。そこで68年12月21日、毛沢東は「農山村に住み着き農民から再教育を受けるべきだ」と笛を吹く。「知識青年」と煽てられた都市の紅衛兵たちは勇躍として農山村や辺境に赴く。この「下放」と呼ばれる政策で、78年までの10年間で、じつに1623万人の若者が都市を離れた。「上山下郷(山に上り郷に下ろう)」と聞こえはいいが、実態は厄介払いであり、テイのいい棄民策だった。

 この本は、毛沢東にいわれるがままに農村に赴いた元知識青年たちの30年の歩みを綴ったもの。著者は革命の聖地で知られた延安に文化大革命勃発前夜の1964年に生まれ、天津工芸美術学院で学んだ社会派カメラマン。実際に農村に出かけ、40代後半から50代にさしかかっていた100人の元知識青年を選び、簡潔な文章とわが国の「不肖・宮島」を彷彿させる人物写真によって、文革に翻弄された彼らの人生を語り、その“現在”を描きだす。

 たとえば1950年に北京に生まれた張観湘は、69年1月に陝西省の黄河沿いの宜川県に送られる。河南から飢饉を逃れてやってきた農村娘と76年に結婚。倹約を重ね家を持つが貧乏は続く。娘を北京の学校に入れようにも、学費が高く、とてもムリだった。元来が体の弱い張は長い森林仕事で体を壊し心臓病などを抱えていて、まともに医療費が払えない。かくして彼はクビになり、衣と食に事欠く始末。妻は能無しと罵り彼の許を去ってしまう。

 1949年に北京で生まれた趙純慧の学校成績は優秀だったが、文革開始直後、技師をしていた父親が「反革命」の罪で投獄される。その数日後、母親の精神は変調をきたす。弟や妹の生活の面倒は一切が彼女の肩にのしかかる。69年初、家族を残したまま宜川県に。翌年に母親と同じ病気になるが、生産大隊の幹部の口利きで同じ村の身障者の李根管と結婚し、3男1女を産んだ。86年、李は郷政府から野菜栽培の仕事を与えられ“公務員”に。だが最大の問題は貧しさ。子供に教育を受けさせることもままならず、住んでいた家も家主が売り払ってしまった。家といっても黄土を掘って作られた窰洞と呼ばれる横穴式のおんぼろ住宅。その家を背にした粗末な身形の一家6人の写真が添えてある。

 一方、周囲の理解と援助を得て大学に進み、日本の奨学金を得て日本に留学し、北京に戻り産婦人科病院副院長を務める女性や、北京外語学院を卒業して職をえた共産党中央対外連絡部からロンドン大学経済学院に派遣され国際関係学で学位を取得し、いまや中国資源外交の最前線となった対アフリカ外交を担っているエリートも登場する。

 負け組に勝ち組。いまも文革の傷痕は深く鋭く残る。30余年の有為転変・・・嗚呼。  《QED》