【知道中国 286回】〇九・九・念九
革命教育基地探訪(28)
―そこが、毛沢東が中国人を《呪縛》に掛けた現場だった


 中央大礼堂の裏口を左手に折れ、道を渡ってしばらく進んだ先に先に中央弁公庁楼がある。横幅6,7メートル、奥行きが15メートルほどのレンガ作りの平屋の部分が公開されているが、その奥は非公開。階段を数段上って中に入る。壁に開かれた横1メートル、高さ2メートルほどの窓が右に7つ、左に7つ。合計14個の窓から明るい光が射し込む。レンガの床が柔らかく照らされ、白い壁が暖かな雰囲気を醸し出し、その場に集う者をなぜか和やかにしてくれる感じ。だが、1942年5月、ここには和やかさはなかったはずだ。

 それというのも、この場所で延安文芸座談会が行われたからだ。参加したのは作家、文芸理論家、劇作家など延安で文芸工作に従事していた100人ほど。ちっぽけな集会ではあったが、毛沢東が話した「文芸理論」なるものが後の中国を雁字搦めに縛りあげ、社会全体を身動きの取れない金縛り状態に押し留めることになった。

 座談会を主宰した毛沢東は、文芸は人民、わけても革命の担い手である労働者・農民・兵士のためのものであるべきだ。革命工作に有益に働くものが優れた文芸であり、芸術的観点を基準にした文芸などは枝葉末節の世迷い事に過ぎない。なによりも政治が最優先されるべきであり、特定の階級や政治路線に尽くすことこそが文芸の役割である。文芸は芸術ではなく政治そのもの。だから文芸は暴露ではなく光明こそを描かねばならない――と力説した。かくて、この集会を機に文芸は毛沢東の考えを宣伝する道具となってゆく。

 当時、蒋介石政権下の腐敗堕落した利権政治を嫌悪し共産党の一員となって社会の変革を図ろうとする都市の学生や知識人は、度重なる妨害や迫害にもめげず憧れの延安を目指す。彼らは革命の聖地に、階級のない、束縛も搾取もない自由で誰もが平等な社会を思い描いていた。だが現実は違う。階級が厳然と存在し、個人が自由に振る舞うことは許されるはずもない。階級の消滅を至上命題とする共産党が、じつは厳格な階級社会だった。

 42年春頃から、共産党統治の暗黒ぶりを暴露する文章が延安発行の『解放日報』に発表される。延安の生活は「着る物も食事も3等級に分かれている」「親分から手下まで、頭の天辺からつま先まで烏のように真っ黒だ。なにが階級愛だ。ペッ、糞喰らえ。ヤツは他人への愛情なんて一片も持ち合わせていやしない。群衆のための仕事といったところで、ダメになるに決まっている」「大物は非合理極まりない特権を享受し、だから一般人は幹部を別人種だと思っている」(王実味『野百合花』)と告発・糾弾した。たとえば食事だが、一般兵士は10人1組に小さなどんぶりのおかずが1品。何ヶ月も、冬は紫大根で夏はかぼちゃだけ。一方、最高幹部の政治局員や毛沢東クラスはスープにおかずは4品。この違いは何だ、なにゆえの特権なんだといいたかったのだろう。げに、メシの恨みは恐ろしい。

 共産党批判、風紀の乱れに毛沢東は激怒するが、政敵粛正はさりげなく文芸部門から。「搦め手」は彼の得意技だ。多くの文芸従事者は彼の権力に沈黙。雪崩をうって自己批判し、我先に人民のための文芸を目指す。建国直前の49年7月の中華全国文学芸術者代表大会で毛沢東の文芸理論が新しい中国の大方針とされ、以後、政治から文芸まで、毛沢東の心の裡にしか存在しない「人民」に、中国は翻弄されることになる。広い中国に人民は毛沢東1人だけ。だから「為人民服務」・・・ガッテンして戴けましたでしょうか。(この項、続く)  《QED》