【知道中国 287回】〇九・十・初一
―公道不公道、自由天知道(正しさを知るは、お天道様のみ・・・)

     『現代稀見史料書系 中共50年』(王明 東方出版社 2004年)

 巻頭の「出版説明」で出版元の東方出版社は、本書で「反動の立場を堅持し、白を黒と強弁し、ヨタ話を捏造し、我が党の歴史における一連の重大事件を歪曲しデッチあげ、我が党の指導者に対し毒々しく悪辣な批判攻撃を繰り返し、あらゆる手立てを講じ自らが過去に犯した左と右の機会主義路線を狡猾にも抗弁し、このうえなく汚らしい自らの面貌を十二分に曝している」と、著者を酷烈に批判する。ところが数頁後に置かれ「1974年3月23日」の日付が記された「作者的話」において、毛沢東は「共産主義と革命の叛徒」であり、「反革命政変を完成させたことで、最も反動的な帝国主義集団と反動勢力の寵臣となった。国際共産主義運動と反帝運動の視点に立てば、真の中国共産党人、中国の総ての人々の心の中では彼こそは最も恥ずべき叛徒となる」と、著者は激憤のままに断罪する。

 そして巻末の「1974年7月7日」との日付がある「跋」は、著者こそは「中国共産党人と中国人民は他国の共産党人と人民の支持をえて、一切の困難と障碍とを克服し、ソ連を前衛とする社会主義の大家庭に中国が復帰することを固く信じていた」と結ばれる。

 じつは本書の原典はロシア語で書かれている。黒一色の表紙中央部に「内部発行 僅供研究」と断ってあるところからして、本書が研究用に読者を限定して出版されたものであり、必ずしも広範な一般読者を求めたものではないことが判る。

 要するに奇妙奇天烈で複雑怪奇な背景を秘めた本だが、著者が建国前の共産党指導者の1人であり短期間ながらスターリンの代弁者として中国共産党に君臨したものの、最終的には毛沢東の軍門に下り、56年にソ連への“亡命”を果たし、本書執筆直後の74年3月27日にモスクワで客死した王明であることを知れば、一切が納得できるはず。いわば本書は“親スタ・親ソの中国共産党人”という立場を貫いた王明が、政敵・毛沢東に向けて死の真際まで書き続けた激越な調子の告発状であり挑戦状であり、斬奸状ということになる。

 毛沢東が偽造した中共党史の根本的誤りは、レーニン主義の思想と路線によって中国革命が勝利したにもかかわらず、自らの思想と路線の勝利であると言いくるめてしまった点にある。さらには中国共産党と中国人民の刻苦奮闘の歴史、コミュンテルンの指導によるソ連共産党とソヴィエト連邦の援助によって得られた輝かしい革命という勝利を、毛沢東は彼個人の功績に独占的に塗り替えてしまった。自らを絶対無謬の存在とし、ありとあらゆる口実をデッチあげ落とし穴を仕掛け反対者・敵対者を罪に陥れ抹殺した。これこそが毛沢東の明白な“悪行”だ――これが著者の主張だが、負け犬の遠吠えにも聞こえる。

 著者によると毛沢東の犯した罪は、たとえば日中戦争当時、党中央決定の方針を無視し抗日戦争に背を向けたこと。41年夏に独ソ戦が開かれ、スターリンの関心の重点が東欧戦線に移った隙に、中央中共軍主席の立場から中央中共警護団を使って「整風運動」を推し進め暴力で政敵を一掃し、延安に絶対権力を掌握したことなど。かくて著者は「整風運動」こそが世紀の愚行・蛮行である文化大革命の原型だと、委曲を尽くして力説する。

 王の告発通りなのか。毛沢東を「貢献7分、誤り3分」と看做す現在の“欽定中共党史”が正しいのかは不明。だが、本書に溢れる毛沢東に対する悪罵と呪詛に満ちた章句を読まされるにつけ、著者の執念・怨念・無念のほどが痛いほど伝わる。哀切の極みだ。  《QED》