【知道中国 290回】〇九・十・初八
―下がれ下がれッ、毛主席のお墨付きが目に入らぬか・・・

     『大串連』(劉濤主編 知識出版社 1993年)

 毎年春節を前に、都会に働きに出ている農村出身者は大きな荷物と共に里帰りし、千万単位の労働者をギューギューに詰め込んだ列車は都市から農村へと向かう。民族の大移動だ。改革・開放に踏み切らず人民公社が解体されなかったら、彼らは生まれ育った農村の外の世界を知ることなく大地に埋もれた一生を送ったはず。都市住民による農山村癒し旅など以ての外。毛沢東時代の中国では公安(警察)が管理する戸口制度によって都市住民と農村住民を截然と区分し、国民が登録居所から一定期間以上離れる時は公安の許可が必要であり、全国民の動静は公安が厳重に取り締まっていた。そんな逼塞した時代、一瞬だが若者に限り、旅費・滞在費・食費免除で好き勝手な全国旅行ができる幸運が舞い込む。

 1966年8月18日、毛沢東は北京の100万人の紅衛兵を天安門広場に集めて接見し、文革の狼煙を上げた。この機会を逃すまいと、共産党中央と国務院(政府)は「文革を参観し、革命の経験交流を」を掲げ、全国の若者(大学・高校の学生と若手教職員)を北京に集めた。狙いは文革の全国への拡大。大学生は全員、高校生は10人に1人、教員は大学では学生50人、高校では100人当たり1人の割合で北京行きが認められる。旅費・滞在費・食費は無料。これが「大交流」とも呼ばれた「大串連」だった。だが、とどのつまりは毛沢東から“お墨付き”を与えられての、アゴ・アシ付きの勝手気侭なパック旅行だ。

 若者満載の列車で北京へ向かった彼らは文革の経験を交流・・・効果覿面。北京で過激に振る舞うことの正当性を覚え生硬な功名心に駆られた若者は、「保衛毛主席」を心に刻み故郷に戻り、気に入らない大人を文革への敵対・破壊者として厳しく吊るし上げ血祭りだ。北京や上海の過激派は文革指導のためと称し各地に赴く。旅の往復の道すがら毛沢東革命を学ぼうと、革命の原点・井岡山、聖地・延安、毛沢東の生家がある韶山などを回り道もした。この本は、そんな体験をした若者たちの回想や当時の日記によって構成されている。

 彼らは自分たちで「全国範囲通行証」を謄写版印刷する。これさえあれば、汽車の旅は全国何処までもタダ。一般的な旅姿は、男女の別なく軍服で腰の辺りを太い皮ベルトでギュッと締める。軍服はヨレヨレであればあるほどに革命的でカッコよく見えたそうだから、誰もが“ヨレヨレ度“を競う。女の子の髪型は「造反頭」と呼ばれた短髪の変型おかっぱスタイル。これで右手に持った「紅宝書」、つまり『毛主席語録』を胸の中央に抱えて肘を張り胸を反ると、前髪がヒラリと額に掛かる――世界は我が手中に。自己陶酔の極みだ。

 「お前らの文革は間違っている」と指導者ヅラをする都市の紅衛兵に対し、「お前らに威張られる筋合いはない」と地方の党幹部・労働者・農民・紅衛兵が反発し混乱を呼ぶ。無賃乗車の若者の輸送を最優先すれば、勢い鉄道による物資輸送は停滞し国家経済に大打撃を与えてしまう。そこで66年10月からは毛沢東の長征に学べと徒歩旅行が奨励される。このまま続けたら混乱が拡大し、毛沢東にとっての権力奪取という文革本来の狙いが吹き飛んでしまいかねない。そこで67年春、毛沢東は大串連中止を打ちだす。若者にとっての夢のようなアナーキーな一瞬は終焉を迎え、若者は大人の政治に翻弄されただけだった。

 中学1年で大串連参加の女性は、「個人であれ国家であれ、ある意味で大串連の影響を今もなお、ずっと引きずっています」と綴る。懐旧、歓喜、悔恨、悪夢、それとも懺悔。  《QED》