【知道中国 299回】〇九・十・念九
―ドンドン政変、ドンドン改憲

  『中華人民共和国第四届全国人民代表大会第一次会議文件匯編』(1975年)+『中華人民共和国第五届全国人民代表大会第一次会議文件』(1978年)

 どちらも香港の中国系書店である生活・讀書・新知三聯書店香港分社が出版。75年と78年。わずか3年を隔てただけなのに、中国の変わりようは余りにも激しい。であればこそ両書を読み較べれば、当時の中国の混乱、周章狼狽ぶりが鮮やかに浮かび上がってくる。

 75年当時、余命幾許もないとはいえ毛沢東の威令は依然として健在だった。そこで四人組は毛の威光を背中にしての勝手し放題。いわば文革派最後の光芒の下で開かれたのが75年1月の「第四届大会」。前書の表紙を開くと、お決まりの毛沢東語録。そのなかの1つを挙げれば、「国家の統一、人民の団結、国内各民族の団結。これが我われの事業を勝利に導く基本的な保証だ」。政治工作報告は周恩来(総理)が、憲法改正に関する報告は張春橋(副総理)が行っているが、周恩来の死は1年後で、四人組逮捕は1年10ヶ月ほどの後。この間に唐山地震で大地震が起こり、毛沢東が「マルクスとの面会」に旅立っていった。

 後書をみると、憲法改正に関する報告者は四人組逮捕の立役者だった葉剣英(全国人民代表大会常務委員会委員長)。「団結し、社会主義の現代化された強国建設のために奮闘しよう」と題する政府工作報告を行ったのは、死を前にした毛沢東から後継者に指名されたという華国鋒(総理)。彼の報告は78年2月26日に行われているが、その年の12月に鄧小平は毛沢東の権威を墨守する華国鋒らの動きを封じ込め、返す刀で毛沢東路線を綺麗サッパリと捨て去り、改革・開放路線へと大きく舵を切る。かくて中国独自の社会主義、いいかえるなら独裁政権下での弱肉強食そのままの“野蛮資本主義”の道を驀進しはじめた。

 今から振り返れば両書とも誰も見向きもしそうにないボロ雑巾のようだが、どうしてどうして当時の政治的情況が反映されていて、じつに面白い。

 たとえば憲法改正に関して。張は報告の最後を「全国各民族人民、先ず以って共産党員と国家工作に携わる人員は必ずやこの憲法を真摯に執行し、勇気を持ってこの憲法を守り抜き、プロレタリア独裁の下で継続革命を徹底して推し進め、我らの偉大な祖国がマルクス主義、レーニン主義、毛沢東思想の指し示す路線に沿って勝利のうちに前進ずることを保証しなければならない」・・・なんとも勇ましく、それでいてなんとも空虚な響きを残す。

 これに対し葉報告は、「これから23年の後には21世紀に突入する。我ら社会主義の祖国がどのようの変容をみせるのかを、考えてもみよう。我われは国の上下を挙げて一致努力し困難を克服し、敵に打ち勝ち、我が国を現代化された偉大なる社会主義の強国として建設し、共産主義の遠大な目標に向かって前進しよう。これは偉大なる領袖である毛主席が遺された願いであり、同時に敬愛する周総理、朱委員長とそのほかのプロレタリア革命家の先人たちが一生を捧げ奮闘し、数限りない先烈が血を流し犠牲となった偉大なる事業なのだ。この事業を、我われは必ずや勝利のうちに達成する」と結ばれる。

 75年には「プロレタリア独裁の下で継続革命を徹底」を掲げた中華人民共和国憲法は、3年後には「現代化された偉大なる社会主義の強国」の実現を期すと書き換えられていた。転変極まりない憲法こそ、行方の定まらない政治路線と激越な権力闘争の反映というもの。これが、いまから30年ほど昔の中国の現実だった。いや今は昔の悪い冗談、かなあ。  《QED》