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【知道中国 302回】〇九・十一・初五
―さらば、我が不幸な祖国よ |
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『鬥争十八年』(司馬璐 自聯出版社 1967年)
中国には徳莫克拉西(デモクラシー)も賽因斯(サイエンス)もないから、外国勢力のなすがままに亡国への道をつき進むのだ。それもこれも孔子の所為だと糾弾した「五・四運動」が起こった1919年、著者は江蘇省北部で生まれた。地味豊かな農村にもかかわらず、農民は悲惨な生活を余儀なくされる。貧しく不器用な父親は軍閥に徴発され、混乱の中であらぬ疑いをかけられ銃殺され、一家を支えた母親も著者が13歳の時に「窮死」する。貧しい生活を援助し、なんとしても勉強したいという彼の願いを叶えてくれた人々は、当時は知らなかったが共産党の支持者であり、共産党員だった。かくて彼もまた、知らず覚らずのうちに共産党活動に入ってゆく。やがて革命の聖地・延安へ。
彼は国民党や日本軍治下の秘密工作要員を養成する敵区工作幹部訓練班で学んだ。1、2週間に1回の割合で毛沢東がやってきて、酷い湖南訛りで政治報告をする。声は低く、抑揚がないが、ユーモアに溢れ、学生の間には笑いが絶えることがない。「中国革命が勝利したら、どんな国家を建設しなければならないか。同志諸君、1人1人に洋風の瀟洒な家とステキな車を提供しよう。誰にでも海外旅行を約束しようじゃないか」。さらにユーモアを込めて「兄弟(おれ)もまだ外国に行ってない。そこでだ、その時になったらみんなと一緒に出かけて、見聞を広めたいもんだ」。こう砕けた調子で人々の心を捉え支持者を増やしていったのだろう。毛の話に対し著者は、「党の指導者の口からでたことだが、とても信用できそうにない。だが、確かにこう聞いて、誰もが愉快な気分になる」と感想を漏らす。
もう1人の指導者だった王明はソ連共産党史を講義したが、たったの1回きりで後は代講任せ。ボソボソとしゃべる毛沢東とは違う。颯爽と登壇し、理路整然と畳みかけるような話し振りには説得力があり、全員が聞き惚れた。ソ連帰りで当時はレッキとした王明派だった康生は常に周囲に「我が党の天才的指導者・王明同志万歳」と声を挙げることを求めていた。その康生は西洋商社の買弁風、というからキザな身形を好んだ。革の長靴を愛用し乗馬と洒落込み、西洋種の猟犬を引き連れ猟に勤しむ。外出時は常に4人以上の護衛に守られ威風堂々と辺りを睥睨しながら闊歩する。王明にせよ康生にせよ、モスクワ帰りのエリート臭プンプン。これでは誰からも好かれそうにない。やがて康生は毛沢東派に転じ、党内で特務活動を推し進め毛沢東独裁体制確立に大いに貢献するが、それは後の事。
陳雲、康生、李富春、王稼祥、張聞天など幹部から党組織、秘密工作、群衆運動、中国革命と武装闘争、階級闘争と民族闘争などの講義を受けた後、国民党支配下の敵地区での秘密闘争に投入される。死線を越え赫々たる成果を挙げながらが、同志を疑い拷問が日常化し、昨日までの同志を反革命・反党分子として処刑するも、明日になれば処刑を指令した幹部が同じ罪名で抹殺される。著者は「こんな組織生活に、正直言ってうんざりしはじめていた。・・・マルクス主義に対する素朴な信仰は心の中で脆くも壊れ果てた」。組織への猜疑心と恐怖心は高まる一方だ。やがて1949年5月の共産党軍入城を機に上海を脱出。香港でペンを武器に共産党告発を続ける。一騎当千とはいえ、多勢に無勢。現実は厳しい。
70年代前半の香港留学時、時折著者と会い、「大陸の仲間からの情報」を基にした鋭い情勢分析を聞かせてもらったが、常に手元不如意。だが、一貫不惑で意気軒昂だった。 《QED》
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