【知道中国 303回】〇九・十一・初七
―憤死、惨死、慙死、窮死、貧死・・・悲憤慷慨、死屍累々

  『歴史的代価 “文革”死亡档案』(金石開編著 中国大地出版社 1993年)

 編著者は「今日という時点に立って昨日を振り返ってみるなら、肝心なのは、あの愚か極まりないドタバタや血腥い蛮行を再現しないということではない。猟奇に満ち、身の毛もよだつような話や恨みを残してあの世に旅立たざるを得なかった魂の叫びから、悲劇が生まれるに至った原因と惨劇を防ぐ有効な手立てを捜し求めることだ」と読者に呼びかけた後、「毛沢東が文革を発動した最初の動機は、確かに多くの群衆を立ち上がらせ“資産階級司令部”を破壊し、党内に遍く存在した官僚腐敗現象に反対し、社会を上から下まで根こそぎ変革することではあった。だが、最終的に向かった先に待ち構えていたのは、誰もが知る大動乱ということ。改革開放がいよいよ進んでいる現在、社会の変革と政治の安定という独特の視点に立って文革が及ぼした災難を深刻に思い返すなら、我われに与えられる啓示は疑いもなく限りなく大きなものになる」と、この本を編んだ目的を明らかにする。

 この本は文革で非命に斃れた34,766人を調査し、そのうちの72例を選び出し、A類:政治家(6人)、B類:走資派(13人)、C類:清醒者=文革告発者(9人)、D:小人物=一般庶民(9人)、E類:臭老九=知識人(7人)、F類:反革命容疑者(8人)、G類:少女(5人)、H類:有名人(15人)と分類し、それぞれの死に至る経緯を綴っている。最高齢は1958年に毛沢東が強行した大躍進の誤りを訴えたことで毛の逆鱗に触れ国防部長を解任された彭徳懐で74歳。最も若い犠牲者は高級中学(高校)の女生徒で18歳。

 18歳の黎蓮は色白の活発な美少女。文革開始時は16歳で自分が通う学校の紅衛兵運動のリーダーだった。1970年、ふとしたことから林彪の主張する「プロレタリア独裁下での継続革命論」に疑問を持ち、自分の考えを手紙にして上部機関に訴えた。かくて彼女は“反革命悪性現行犯”で逮捕され投獄。獄中で散々陵辱された挙げ句に、下された判決は死刑。

 真っ黒い雲が空を覆い大粒の雨が降り注ぐ。彼女を載せ刑場に向かう護送車の後をピタリと救急車が追う。刑場の手前で護送車が急停車すると、救急車から白衣の2人が飛び降りて護送車へ。中では4人の屈強な武装警察官が彼女を転がし、動かないよう板に縛りつけていた。上着が捲り上げられる。麻酔薬を使う間もなく、彼女の右の腰辺りをメスが鋭く切り裂いた。程なく、鮮血したたる腎臓が取り出される。その数日前、腎臓移植を必要とする幹部を患者に抱える病院は、関係部門に処刑直前の囚人の新鮮な腎臓入手を打診していた。「護送車はウィンウィンウィーンと警笛を鳴らしながら、刑場へと去っていった」

 37歳の女医は「黄色い太陽が防風林の上空に掛かり、金色の光を放っている」との日記の一節を咎められる。「黄金の太陽とはなんだ」「夕方、私が目にした太陽です」「反動だ。お前は黄色い太陽で紅い紅い太陽の毛主席を覆い隠すつもりか」。1971年3月12日午前、「反革命現行犯」で処刑。彼女の口に竹筒を差し込み、鉄線が喉を貫く。中空高く引き上げると、パンパンと2発の銃声。最期のことばは「歴史が私の正しさを証明してくれます」

 理不尽極まりない苦境に追い込まれた誰もが命で贖わなければならないような重い罪を犯したとは思えない。だが、中国全土が熱狂に煽られ、庶民はワケもなく猛り狂い常軌を逸していた文革の時代なればこそ、紛れもなく“大罪”だった。あの時代には互いが貶め合い、「改革開放がいよいよ進んでいる現在」はカネ儲けに狂奔する。それが衆庶だ。  《QED》