【知道中国 315回】 〇九・十二・初五
――江青、いったいアンタは何サマのつもりなんだ


 『文革最後的28天 江青集団覆滅内幕』(紀希晨 香港商報出版社 2000年)

 この本は、1976年9月9日の毛沢東の死から10月6日の四人組逮捕までの28日間に、北京の最上層で展開されたポスト毛沢東を巡っての暗闘を克明に綴ったもの。「人民日報高級記者」の肩書きを持つ著者が1982年に葉剣英と華国鋒に対して行ったインタビューが、この本の骨格になっている。周知のように葉は四人組殲滅に積極的に動き、華は毛沢東から「アンタがやってくれたら、わしゃ安心だ」との自筆の書付を貰って後継者に指名されている。「彼らは現在でもなお知る人の少ない内幕を明らかにしてくれた」そうだが、古今東西、勝てば官軍である。そこで、眉にツバしながら読むことにしましょうか・・・。

 発端は1971年9月13日に発生した林彪のソ連逃亡劇である。69年4月に開催された第9回共産党大会で採択された共産党党章で「後継者」に指名してやった「この上なく親密な戦友」であったはずの林彪の“裏切り”は、やはり毛沢東にとっては痛恨事だったらしい。その時から「彼の体調は下り坂を転げ落ちるように弱っていった」。

 孤独な老残の身をソファーに横たえ、タバコを1本、また1本とくゆらせながら、煙をジッと眺め深く考える。今日もまた眠れぬ夜。「おそらく、心の裡に広がる痛みと苦しみに耐えかねていたのだろう」。

 71年11月下旬、毛沢東は危篤状態に。なんとか苦境を脱したが、全身の浮腫みが激しく靴さえ履けない。72年1月6日、彼の革命の原点である井岡山以来の戦友・陳毅が癌で死亡。動くこともままならない身ではあったが、毛沢東は周囲の止める声を聞かず追悼会にでかけ未亡人に「陳毅を惜しむ。立派な同志だった」と声を掛ける。文革中、批判されながらも陳は林彪や四人組を糾弾し続けた。この時、毛沢東の脳裏を過ぎったのは、共に死線を潜り抜け建国を達成しながら遂には文革で憤死していった多くの戦友の最期だろうか。

 ある時、「林彪はワシが選んだ。王洪文もワシが選んだ。どいつもこいつもダメだ」。秘書が周恩来の名を挙げると、「周に欠けているのは、これだ・・・」。これを著者は「(毛)主席は、周恩来は大情況を統率する魄力と胆力が欠けていると考えていた」とする。

 かくて後継者に選ばれた華国鋒に立ち塞がるのが、「私を誰だと思ってるのッ。つけあがるんじゃないわよッ」といった雰囲気を撒き散らす江青に張春橋、姚文元、王洪文の四人組。加えるに毛沢東の甥で毛と四人組の連絡係を務めていた毛遠新。対するのは葉剣英や汪東興などの古参幹部の面々。じつは彼らは67年2月に暴力が目に余ると文革派を批判したが、毛沢東は「革命のなんたるかを知らないものだ」と激怒。
 これを「二月逆流」と名づけ、林彪や四人組は古参幹部追放キャンペーンを展開し、既存の共産党組織を機能停止に追い込み、以後、彼らを中心とする中央文革小組が権力を完全掌握することとなる。

 葉と汪の2人は、文革で痛手を受け四人組を苦々しく思っているはずの陳雲、聶栄臻、楊成武など古参幹部に巧妙に根回して時を待つ。かくて76年10月6日、「江青ら悪党一味は我が党をひっくり返し資本主義の復辟を企んでいる」ことを理由に決起。
四人組勢力は一網打尽。かくて血を流すことなく「十年続いた『文化大革命』は終息した」のである。

 結局、毛沢東の死が四人組の焦りを募らせ、同時に反四人組の背中を押したということだろう。盗亦有道。彼らの闘いもまた、権力の真空状態が招いた一瞬のアダ花だったと思える。あれから30数年が過ぎ、いまや資本主義は完全に復辟した。往時茫々たり。  《QED》