【知道中国 321回】 〇九・十二・仲五
――それを寝言というんじゃありませか・・・


 『両種社会 両種工資』(上海人民出版社 1973年)

 「我われ労働者は、旧社会では資本家に代って労働して賃金をえる。新しい社会では社会主義のために働いて、同じように賃金を手にする。新旧の異なった社会における異なった賃金と分配とは、とどのつまり本質的にはどのように違うのか」と問題提起した後、「マルクス主義政治経済学の原理を用いて、この種の問題に答えてみようとした」というのが、本書出版の趣旨らしい。

 資本主義の守り手たちは「労働者は労働力を、資本家は賃金を提供する。労働者は1日働いて1日の賃金を得る。これは公平な取り引きであり、完全に合理的である」などと甘言を弄し、労働者と資本家の間には搾取・被搾取などという関係はなく、相互の間の“公平な売買”があるだけなどとバカバカしいことを並べ立てる。だが労働は商品ではない。商品なら当然のように値段がある。その値段は何で決まるのか。全ての商品の価格はそれに含まれる労働量の総体で決められる。かりに労働の値段が労働量によって左右されるものなら、労働が労働を決めるという堂々巡りとなり、「これこそ、紛うことなき同義反復」(『資本論』)ということになってしまうではないか。

 ――こう説く本書は解放前の上海のタオル工場を例に挙げる。タオル1ダースを作った労働者に払う賃金は1角だが、それを資本家は12元で売る。賃金と利潤の比率は、なんと1対120。そこで「賃金なるものは労働者が提供した労働の全報酬であるべきだ。なにが“公平”で、どのツラ下げて“合理的”だとヌカスのだ。荒唐無稽なペテンではないか」と、暴利を貪る資本家と資本主義の矛盾を告発した後、公平無私な労働者の天国である社会主義社会でこそ『各尽所能、按需分配(各自の能力に応じた分配)』が行われると語る。

 「生産資料」――生産設備、原材料、ノーハウなどモノ作りにかかわる一切――は集団の所有となり、資本家の搾取がなくなり、生産は適正に行われる。かくて「社会主義社会における安定した物価は、労働人民の生活水準を一日一日と高める重要な要素となる」。その証拠に、「新中国における物価が安定したことで、労働者は限りなく幸福な生活を実感している。解放以来20年・・・市場の物価は安定し、人民元の威信は高まるばかりだ。西側のブルジョワ階級ですら『中国は世界でも稀な物価安定国家だ』と認めざるを得なくなったのだ」と胸を張る。だが“物価超安定国家・中国”は「貧乏の共同体」でしかなかった。 

 だからこそ鄧小平は「痩せ猫よ、ネズミを捕って肥れ」と対外開放に踏み切ったはずだ。

 本書は大上段(冗談?)に振りかぶり、「共産主義社会は、共産主義思想を具体的に備えた者の手によってしか建設できない。人々が共産主義思想の覚悟を普遍的に持ってこそ、ブルジョワ階級による法権の壁をブチ破ることが可能となる。これこそが『各尽所能、按需分配』という共産主義社会の重要な柱となる。共産主義は輝ける光を無限に放ち、この上なく麗しい社会である。毛主席の指し示すプロレタリア階級路線を終始一貫して堅持し、手を変え品を変えて登場する修正主義の思潮と断固として戦い続けてこそ、共産主義の労働の本質が確立され、偉大なる共産主義の理想が必ずや実現できるのである」と主張する。

 ならば共産党政権が「共産主義思想を具体的に備えた者の手によって」担われていない以上、中国では「偉大なる共産主義の理想が必ずや実現でき」ないことになる・・・ナ。  《QED》