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【知道中国 322回】〇九・十二・仲七
――“一枚岩の団結”・・・嗚呼、眩い夢のような時代がありました |
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『中国共産党歴史簡単編』(王実ほか 上海人民出版社 1958年)
1957年11月、ソ連の「10月革命40周年記念式典」に参加するためモスクワを訪問した毛沢東に向かって、フルシチョフ第一書記は「ソ連は15年でアメリカを追い越す」と豪語した。なんせ相手はスターリンを全面批判した許し難い人物だ。そこで毛沢東の対抗心に火が点く。「ならば我が国は15年で超英――鉄鋼などの主要工業生産高でイギリスを追い越し、その勢いのままに?美――アメリカに追いついてやりますよ」。売り言葉に買い言葉。大人気ないといえばそれまでだが、これが後の大悲劇を生んだ大躍進政策の発端とか。
帰国後、毛沢東は「超英?美」の実現に向けて野心的で超強気な方針を打ち出した。58年8月下旬に中央政治局拡大会議(北戴河会議)を召集し、鉄鋼増産運動・人民公社建設を柱とする大躍進政策を決定する。いわば国を挙げて「ソ連何するものぞ」と息巻いていた58年9月、この本は「老幹部の教育用」に「関連する歴史変動の全体構造を叙述し、各時期の歴史的条件の全面的分析と党の路線・政策の研究に重点を置いて」編集されている。とはいうものの、この本は毛沢東賛辞で終始一貫している。
「毛沢東同志は我が国の英雄的なプロレタリア階級の傑出した代表であり、我が国の偉大なる民族の優秀なる伝統を備えた傑出した代表であり、彼は天才的な創造的マルクス主義者であり、人類最高の思想であるマルクス主義の普遍的真理と中国革命の具体的実践とを結合させ、しかるに我が国民族の思想をこれまで到達したことのなかった高みにまで引き上げ、限りない災難を背負わされた中国民族と中国人民のために徹底した勝利に至る正しい道を指し示した」「革命に当たっては毛沢東同志とその思想の導くところに従えば革命は勝利し、発展し、毛沢東同志とその思想の導くところに逆らう時、革命は失敗し後退する」――であればこそ、この本の結論は毛沢東の指導の下で「正確な政治路線と軍事路線とを歩み」、帝国主義を中国から追い払い、「党内の右傾機会主義と“左”の傾向を時宜に適して正し、国内反動派を打ち破り偉大なる勝利を勝ち取った」ということになる。
この本で、こういった歯の浮くような美辞麗句で毛沢東をヨイショしまくっているのは、誰あろう劉少奇なのだ。ここまでくると、北の将軍サマに対する誉めコトバなんぞは笑止千万。洟垂れ小僧の戯言、いや世迷いごととしかいいようはない。
その劉少奇は大躍進が結果として招きよせた災禍を「天災でなく人災だ」と決め付け、毛沢東の顔にドロを塗る。かくして数年後、劉少奇は「中国のフルシチョフ」「資本主義の道を歩む実権派」として事実上、惨殺されてしまう。いわばこの本は、まがりなりにも延安以来の共産党幹部が毛沢東の下に一致団結していた時代の“欽定共産党史”である。
だからこそ、「中国革命の勝利はマルクス・レーニン主義の新たな勝利であり、この革命は殖民地・半殖民地の国家における革命の典型である。この革命の勝利は一歩進んで帝国主義陣営を弱体化し資本主義陣営の矛盾を先鋭化させ、世界の2大陣営の対立競争において社会主義陣営に有利な変化をもたらす。この革命の勝利は、全ての圧迫された民族の反帝国主義闘争をこのうえなく鼓舞し推し進める。それゆえ、この勝利は世界的意義を備えた勝利なのである」と、中国革命の勝利を最大・最上、いや無限大に自画自賛してみせる。
いまから思えば“欽定共産党史”なんぞ噴飯モノ。その場限りのゴ都合主義だ。 《QED》
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