【知道中国 330回】 十・一・初二
――眼病の原因も、すべからく劉少奇にあるのだ・・・

 『常見眼病的防治』(上海人第二医学院付属新華医院眼科編 上海市出版革命組1970年)

 この本は麦粒腫、結膜炎、トラコーマ、角膜炎、白内障など17種類の日常的な眼病の症状を白黒とカラーの両写真で示し、それぞれの原因を詳細に解説し、これら眼病治療ための漢方・西洋双方の常備薬紹介と調剤法を紹介し、手術方法をイラスト入りで説明し、“おまけ“として近眼検査表まで付いた優れモノ。出版時期からいうなら、眼病に関する“文革版家庭の医学”といったところだろうか。

 だが、その出版時期が大いに問題。それというもの、眼病といえども政治的にならざるをえない。そこで、この本が出版されるまでの経緯を追ってみることにする。

 当時、「医療衛生戦線においても、二つの階級、二本の道筋、二本の路線での闘争は熾烈を極めていた。叛徒であり内なるスパイであり裏切り者の劉少奇と衛生部門における代理人は、毛主席の衛生工作に関する一連の指示を長期間にわたって狂ったように妨害し、反革命で修正主義の衛生路線を頑なに推し進め、広大な農村や山間地を医者も薬も少ない情況に打ち捨てたままだった。トラコーマ、結膜炎、角膜炎などは現在になっても一般的に治療をえられないありさまだ」。そこで、「医療工作の重点を農村に置け」との「毛主席の輝かしき指示」を受けた「赤脚医生」の登場となる。

 「はだしの医者」と訳された赤脚医生とは、農作業に従事しながら農山漁村で医療衛生活動を進めていたセミプロ医療従事者。じつは1950年代半ばから行われていた制度であり、一定程度の学歴を持つ若い農民に1ヶ月から3ヶ月程度の初歩的医療実務を学ばせ、農山漁村での公衆衛生対策に当たらせていた。文革中、はだしの医者は毛沢東思想と結び付けられ、万能の医者として内外に大々的に宣伝されたもの。当時、彼らによる“マユツバもの”の治療や手術の模様が、官製メディアを通じ洪水のように伝えられたものだ。

 「毛主席に無限の忠誠を誓う広範なはだしの医者は、毛主席の革命路線に限りない誠意を捧げ、熱い心を込めて多くの貧農下層中農に服務する。いま、溌溂と胸を張る労働者出身の医者の隊伍は成長しつつあり、より多くの工場における衛生戦線の基幹となる。広範な医療関係者は毛主席の教えを固く護ることを誓い、『一不怕苦、二不怕苦(一にも二にも苦労を恐れない)』の徹底した革命精神を発揚し、『完全』に『徹底的』して労働者・農民・兵士に尽くすことを心に定める」ことになったわけだ。

 この本には、上海人第二医学院付属新華医院眼科にも毛沢東思想を掲げる労働者の宣伝工作隊が乗り込み、「戦って負けなしの毛沢東思想によって医療関係者の思想改造を手助けし、彼らの立つべき位置を労働者・農民・兵士の側に近づけた」と書かれている。この記述から、どうやら文革派の武装組織が病院に乗り込んで医者たちを脅し吊るし上げ、病院の経営権を奪権したことが想像できる。文革派が病院を乗っ取った、というわけだ。

 かくして、「我が病院の眼科関係者は、労働者と軍の宣伝隊の指導と積極的な支持を受け」、はだしの医者、労働者医師、革命的医療関係者が日常的にみられる眼病の診断・治療・予防の便に供するために、「一九七○年六月」に「上海第二医学院附属新華医院革命委員会」によって、この本は編集されたのである。

 文革と医療、政治と衛生、毛思想と病気治療――政治が全ての幻想の時代だった。  《QED》