【知道中国 332回】 十・一・初五
――彼はバカをみた正直者でしかなかった・・・のか


 『一心為公的共産主義戦士蔡永祥』(解放軍文芸社 1967年)

 1966年10月9日午前、江西省吉安市第二中学の紅衛兵と革命的教師の一団は天安門広場で毛沢東の接見を受けるため、南昌発北京行きの汽車に乗車した。
「僕らの心は、もう北京に、毛主席の身辺に飛んでしまっていた」。「汽車もまた飛ぶように奔る。
二日目の深夜2時過ぎ、銭塘江辺りにさしかかると、汽車は鉄橋の上で急停車した。なんだろう。なにが起こったんだろう。数十分して、汽車は何事もなかったかのように動き出した」。車掌の説明によれば、「銭塘江大橋手前数十メートルのところで線路を塞ぐ大木を発見したが、解放軍の戦士が我ら紅衛兵を毛主席の許へ送り届ける汽車を救ってくれ、英雄的犠牲になった」。

 「この知らせを聞くや、列車に乗り合わせた誰もが深い悲しみを覚え、この真の毛主席の立派な戦士、プロレタリア文化大革命に身も心も捧げた守り手に惜しみない賞賛を送り、一斉に声を張り上げ『解放軍は紅衛兵をイチバン愛しむぞォーッ、我らは解放軍にシッカリと学ぶぞォーッ』とシュプレヒコール」。やがて汽車は北京到着。かくて「10月18日のこの日は僕らの生涯で忘れ難い一日となった。この日午後2時19分53秒、僕らは偉大なる導師、偉大なる領袖、偉大なる統帥、偉大なる舵取りの毛主席との接見を果たしたのだ」。

 以上は、この本に納められた「蔡永祥同志、我らは就いて行きます!」という題のある紅衛兵による追悼文の一部である。この「蔡永祥同志」こそ、わが身を擲って列車転覆事故を未然に防いだと全国で報じられ、全人民に讃えられ熱く迎えられた「毛主席の真正の立派な戦士、プロレタリア文化大革命に身も心も捧げた守り手」である。

 彼の“死“の真相を論じても無意味だ。66年10月といえば文革開始直後。なにか1つ、ガツーンとインパクトのある話題が欲しかった文革派メディアにとって、願った以上の格好の宣伝材料であったに違いない。早速、“絵になる英雄的な死”が大々的に報じられる。

 早速、『人民日報』が11月18日付けで「文化大革命の忠実な守り手」と題する社説を発表し、彼の英雄的行為を讃え、その犠牲を悼んだ。解放軍の機関紙である『解放軍報』は、「一心を公に捧げた共産主義の戦士  ――身を捨てて紅衛兵専用列車を救った蔡永祥同志に」(10月30日)、「一瞬一秒を争う精神で世界観を改造せよ  
 ――再び一心を公に捧げた共産主義の戦士・蔡永祥同志を論ず」(11月18日)、「革命戦士の頭には私心という雑念が入り込む余地は全く無い  ――三たび一心を公に捧げた共産主義の戦士・蔡永祥同志を論ず」(12月1日)と3回にも及ぶ異例の大キャンペーンを張り、激しくアジテーションを繰り返し、全国各地で「蔡永祥同志」を顕彰し学習する運動を巻き起こそうとした。

 この本は、上記の社説、ひたすら毛沢東への思慕の念と毛沢東思想学習の成果が綴られた蔡永祥の日記の一部、全国から寄せられた追悼文によって構成されている。どの追悼文も、毛沢東思想を学び毛沢東の立派な兵士たらんと奮闘努力する「蔡永祥同志」を讃えるステレオタイプ。正直なところ読むほどに気恥ずかしさが募るといったところ。当時の時代情況を考えれば致し方ないが、同時に当時の異常な時代精神を知る貴重な資料でもある。

 ところで、「蔡永祥同志」に救われて「偉大なる導師、偉大なる領袖、偉大なる統帥、偉大なる舵取りの毛主席との接見を果たした」「僕ら」は、いまどうしている。
いったい何人が若き解放軍兵士の名前を記憶していないだろうか・・・犬死の2文字が頭を過ぎる。  《QED》