【知道中国 337回】 十・一・仲六
――ヘンなオバさんが歩んだ奇妙奇天烈で奇想天外な人生

『留雲借月  陳香梅回憶録』(陳香梅 時報出版 1991年)

 北京にあったアメリカ系の協和医院で1925年に生まれた女性の回想録だ。父親はケンブリッジ大学(法学博士)とコロンビア大学(哲学博士)で学び、30年代には北京大学で教えている。母親は英国、イタリア、オーストリアに留学。父方の祖父は福建出身商人で香港で大成功。母方の祖父は汪兆銘、唐紹儀、梁啓超、顧維鈞など20世紀前半の中国を代表する政治家を友人に持った外交官。キューバ公使を経て20年代に日本公使。親類縁者たちは、現在では大陸、台湾、アメリカなどに住む。まさに「四海為家(せかいは我が家)」だ。

 著者は6人姉妹の上から2番目。幼い頃から勝気でオテンバで派手好み。両親や姉妹を相当に悩ましたらしい。香港で教育を受けた後、44年に国民党の報道・宣伝機関である中央通訊社昆明支社に女性記者第一号として入社。翌年秋には上海支社に。47年からは民航空運公司で雑誌編集も担当。ここまでは単なる摩登(モダン)ガールといったところだが、この年12月に上海で陳納徳将軍(1893年から1958年)と結婚し人生は一変する。49年には香港に移り住み、陳将軍の回想録である『The Way of AFighter』の執筆を手伝う。

 陳将軍とは、日中戦争時、日中両軍最後の激戦地となった湖南省西部の?江に基地を建設し、超弱体中国空軍に代わって日本軍を空から悩ませた飛虎隊(フライング・タイガー)を創設・指揮したシェンノートの中国名だ。彼は義勇兵として中国戦線に参戦したことになっているが、客観情況から考え、蒋介石の懇請に応ずる形で米空軍から送り込まれたとみるべきだ。著者は結婚への経緯について語ってはいないが、政治的打算がなかったわけがないだろう。抗日戦争における空の英雄は、大きな財産だ。
シェンノート夫人なればこそ、台北・北京・ワシントンの政界を軸に今なお虚実ない交ぜの派手な振る舞いができるのだ。喩えるなら、彼女にとってシェンノートは水戸黄門が持つ葵の印籠。これを持ち出されたら、国民党も共産党もホワイトハウスも先ずは頭を下げざるをえない。そこで相手の懐へ。だからこの本は、シェンノートを看板に派手な政治的パフォーマンスを繰り返してきた彼女の自慢話であり、同時に米中(共産党+国民党)関係の裏面史でもある。

 60年にワシントンに転居しケネディー政権誕生を機に米政界に足場を築く。ホワイトハウスで働く中国女性の第一号として中国難民救済総署主席(63年)、ニクソン支持全米夫人委員会主席兼アジア関連事務顧問(67年)、共和党行政委員会委員兼財務委員会副委員長(68年)、レーガン政権親善大使として中国・台湾を歴訪、共和党少数民族全国委員会主席、同党アジア系委員会主席、ホワイトハウス輸出委員会副主席(80年)、ブッシュ政権ホワイトハウス学者委員会委員(90年)、国務省環境保護委員、国際協力委員会主席(91年)など、“赫々たる勲功”が自慢げに記されているが、彼女は中国の近現代政治の中枢に繋がるもう1つの重要な政治的資産を持つ。母方の家系は孫文側近の廖仲凱、その息子で共産党政権にあって華僑工作を一手に取り仕切った廖承志に繋がっていた。であればこそ彼女は、国民党・共産党・ホワイトハウスの間を“正三角形”に結んで飛び回ることが可能なのだ。

 89年の天安門事件後、北京・台北・ワシントンを結んでの隠密シャトル外交は彼女にとっては一世一代の華々しい舞台だったようだ。米中(共産党+国民党)関係は彼女のような“隠花植物”を生息させながら推移していることを、ゆめゆめ忘れてはならない。  《QED》