【知道中国 349回】 十・二・初六
――わずかですが、長閑な時もあったんです・・・

  『民間少年游戯』(顧也文編 上海文化出版社 1958年)

 浙江、江蘇、安徽、湖北、雲南、四川などで昔から伝えられてきた子供の遊びを集め、誰でも遊べるように判り易く解説している。読み終わって先ず奇妙に感ずるのが、この本には毛沢東の「も」の字も、共産党の「き」の字も、ましてや帝国主義反対だの軍国主義復活阻止だの社会帝国主義打倒など――ヤボで物騒な語彙が1つも見当たらないことだ。

 この本が出版された58年3月前後の政治の流れを振り返ってみると、2年前の56年4月に毛沢東は「百花斉放・百家争鳴」を提唱し、主に知識人に対し共産党批判を含む自由な発言を促すが、予想に反し激烈なる共産党批判が巻き起こってしまった。自尊心を大いに傷つけられ面子を失った毛は逆襲に転じた。オレ様を誰だと思っていやがるんだ。共産党、つまりオレ様を批判するような不埒千万なヤツラは断固として許しておくわけにはいかない。徹底して締めあげ痛めつけてやれ。かくて翌57年6月に「反右派闘争」が始まり、国を挙げた政治運動・権力闘争の時代へと流れ込み、この本が出版された2ヶ月後の58年5月、「社会主義建設の総路線」を掲げ、人民公社を軸とする大躍進とう名前の現実を無視した狂気の急進的社会主義路線へと突入することとなる。

 ついでにいうなら、ポーランド(ボズワニ)で反ソ連の暴動が起きたのは56年6月。4ヶ月後の10月はハンガリー暴動。58年7月に訪中したフルシチョフ提起の中ソ共同艦隊建設案を中国側が拒否したことで両国の対立は、回帰不能点を超えてしまう。

 このように内外が緊張する時代に、かくも長閑な本が出版されるとは、あるいは奇跡なのか。とはいうものの「前言」には、「これらの遊びが文字で伝えられることは稀で、大部分が祖父から父へ、父から子へと伝えられ残されてきたものであり、庶民の生活感に溢れている。それらは我が国労働人民の智慧、勇気、朴実な姿を明示し、我が国労働人民の積極、楽観、勤勉、それに労働をこよなく愛する思想感情を表現している」とあるから、中華人民共和国が労働者の国家であるというタテマエを忘れているわけではなさそうだ。

 この本に収められた60種の遊びの中には、「摸盲盲(おにごっこ)」「抜河(つなひき)」「打陀螺(ベーごま)」「造房子(いしけり)」「拍球(まりつき)」「跳橡皮筋(ごむとび)」「抓飛子(おてだま)」など、かつて日本の子供が遊んだものもあれば、同じようだが違うもの、また想像もできそうにない遊びもある。たとえば「蜈蚣行走(むかできょうそう)」。日本では沢山の鼻緒がついた板を大勢で履いて競争するが、中国では全員が両手を地面に着けて体を支え、前の人の腹を後頭部に載せ、両脚を背負いながらの前進。ラクチンそうな先頭を除き、残り全員はツラそうだ。先頭にならなかったら遊びたくはない。立ったまま、しかも負担が全員平等な形の日本の百足競争に較べ、理不尽で不平等な遊びだ。全員苦しいのに耐えろ。楽しむのは先頭の1人だけでいいということを、幼い時から学ぶのか。

 興味深いのが、文革時代に流行った模擬手りゅう弾投げなどの戦争ゴッコのような遊びが一切紹介されていないこと。やはり、そんな物騒な遊びは子供にはさせられないとでも思っていたのであろうか。なにはともあれ、この頃はまだ子供が子供らしく振る舞えたのだろう。この本から、子供たちの陽気で屈託のない歓声が聞こえてくるようだ。

 だが8年後には文革が勃発。無邪気な子供は過激で残忍な紅衛兵に変身する。  《QED》