【知道中国 354回】 十・二・仲八
――現実政治は国際関係論の枠を遥かに超えてしまうようだ

 『世界の中の中国』(衛藤瀋吉・岡部達味 読売新聞社 昭和44年)

 アメリカナイズされた国際関係論的視点に立った現代中国研究の大御所といえば、多々異論があることは百も承知だが、かつては衛藤、いまや岡部といったところだろうか。

 この2人が二人三脚で本書を著した当時、衛藤は水を得た魚のようにマスコミを通じて時務情勢論、時に警世の発言を盛んに行い、岡部は「人民日報」の記事に現れる語彙の数量的分析に基づく共産党の内外政策の変遷を追いかけるなど地味な研究に精を出していたはず。

 本書は文革勃発直前から文革で毛沢東が勝利を収め、国を挙げての大混乱が一先ず収拾しかけた1969(昭和44)年までの数年間に発表された8本の論文を収めている。付け加えるなら、当時の中国の人口は7億。国連の安保理常任理事国のポストは依然として台湾の中華民国が占め、中ソ両国は軍事衝突にエスカレートするほどに激しく対立していた。

 このような緊張した時代にあって、著者は「できうるかぎり偏見を排し、自戒自制しつつ、何物にもとらわれない態度で虚心に現実を把握する努力をしないかぎり、イデオロギー的、政治的、感情的立場をこえて、これだけは誤りのない基本的事実だという共通の認識を生み出すことはできないであろう」と、論文執筆の基本姿勢を示す。
こういった著者の“真摯な態度”は解らないわけではない。だが、最初から「これだけは誤りのない基本的事実だという共通の認識」を持とうなどと全く考えない相手に、いったい、どうすれば「これだけは誤りのない基本的事実だという共通の認識」を持たせることができるのか。

 たとえば「『中華帝国』復活の野望?」なる論考をみると、「現在も中華帝国の復活をひそかに企図しているのだが、それを公然と主張することは、かえってこの目的の実現にとっては不利だとしてかくしているにすぎないという見方」に対し、著者は①周辺諸地域の人民を反中国の側に追いやることは、短期的にも長期的にも不利。②「その地域の人民が反米闘争に努力している時に、この地域を中国の版図におさめたいなどと考える必要は全くない」。③これらの地域は「すでに人口は稠密であり、中国人が進出したところで、それに伴う犠牲をつぐなうほどの『利益』を保証されることは不可能である」――2人の著者にとっての「誤りのない基本的事実だという共通の認識」を提示した後、「政治的にいっても経済的にいっても、中国の南方への領土拡張はひきあわない仕事である」と結論づけた。

 だが、巻末に収められた「中国革命の底流」では、「これからも“富国強兵”の課題を追い続けるであろうことについては全く疑いないだろうと私は考えております」とも。はたして富国強兵は『中華帝国』復活の野望」に結びつかないとでも、著者は考えていたのだろうか。本書が出版されてから40数年後の今日、「中国の南方への領土拡張」は着実に、しかも深刻に進行している。ミャンマー、インドシナ、タイの現状が、それを物語る。

 国際情勢の変化といえばそうだろうが、当時と現在の大きな違いは、衛藤が好んで用いた「無告の民」が手前勝手にモノをいい、溜まりに溜まったフラストレーションを吐き出すことの快感を知ってしまった。「無告の民」が自ら忍従の頸木を解こうとしていることだろう。だから共産党が既得権益を守り一党独裁の継続させるためには「『中華帝国』復活の野望」を掲げ富国強兵の道を突っ走り、モノいう「無告の民」の口封じを狙うしかない。

 いかな碩学であれ時代の制約からは逃れられないことを、本書が教えてくれる。  《QED》