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【知道中国 355回】 十・二・念
――荒野を徘徊する人狼も、元はといえばフツーの農民だった |
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『中国匪人』(冬煤 甘粛人民出版社 1997年)
自然災害に戦乱、それに飢饉が追い打ちを掛ける。耕すべき土地も失った。目の前にあるのは地獄の日々。故郷に留まったところで、残された道は餓死。道端で果てて犬のエサ。長い中国の歴史の歩みは、なんとも過酷な生活を民衆に強いてきたものだ。
「人間の本性を忘れてからに、野良犬みてえに互いに食い合うようなことをしねえためにも、この土地を出ていかなけりゃならねえ」。かくて謹厳純朴な百姓の王龍は、「南へ行くだ! この広い国だで、どこも飢饉だというわけはねえだ。
どんなに天が意地悪でも、まさか漢民族をみな殺しにすることもあるめえて」と、一家を挙げて流民の一群に身を投じる。南方の大都会で乞食同然の生活をしながら食い繋いでいた王は、金持ちの屋敷を襲う民衆の渦に巻き込まれる。騒動の渦中で偶然にも夥しい数の宝石を手に入れたことで、彼の人生は一大転機を迎える――これがノーベル文学賞作家のP・バックが20世紀初頭の中国における農民の生態を描いた『大地』の発端だ(大久保康雄訳 河出書房 昭和35年)。
王龍は小説の主人公だから幸運が舞い込んできた。だが現実的に十中八九は野垂れ死にだ。とはいうものの、なかには敢えて「人間の本性を忘れてからに、野良犬みてえに互いに食い合う」ような道を選ぶヤツだっている。それが地域によって胡子、胡匪、響馬、棒子手、刀客などの異名で呼ばれる土匪ということになる。著者は土匪を「(1)農業社会が生み出す。農村は周期的に飢饉、激甚な自然災害、戦争などに襲われ、餓死を免れんとして彼らは武器を手に仲間を集い、欲しいものはなんでも手に入れようとする。(2)その存在と活動は国家の法律の埒外にある。(3)その行為は過酷な現実への抗議であり客観的には反社会的だが、明確な政治的目標を持たない。(4)生産活動に与せず、押し込み、強盗、略奪、拉致、誘拐、殺人を生業とする」と定義し、その生態を克明に綴る。
「東北王」の張作霖、「雲南王」の陸栄廷、「東陵大盗」の孫殿英、「狗肉将軍」の張宗昌、「中州大侠」の王天縦など、近現代の中国で傍若無人の悪行を重ね社会を恐怖に陥れた軍閥も、その元を辿れば腹を空かした挙句に敢えて「人間の本性を忘れてからに、野良犬みてえに互いに食い合う」道を選んだわけだ。当初は数人で徒党を組むが、腕と度胸とワルを武器に勢力を拡大してゆく。数万の私兵を蓄え堅固な山塞を根拠に一県から数県、数県から一省、一省から数省を押さえ中央政権の影響力を排除し、独立王国を形成する。こうなると中央政権は手も足も出ない。討伐できないのなら共存共栄だ。そこで形だけでも役職を与え中央政権に取り立てる形を取る。これを「招安」といい、頑強な敵を一瞬のうちに味方にしてしまう便法だ。蒋介石は多くの軍閥を招安によって味方の側に置いた。私兵は正規軍に化け、晴れて蒋介石の幕僚となった彼らは将軍と呼ばれるようになる。
招安を受け中央権力の一角にしかるべき立場を占める軍閥を政治志向型土匪とするなら、「狐や狸より狡猾で、泥鰌より掴みどころがなく、虎よりも凶暴で、蛇蝎よりも毒を持つ」という性格で、一貫して悪の限りを尽くし民衆から恐れられた匪賊も少なくはない。これが「黒吃黒(ワルを喰うワル)」だ。彼らは目的のためなら手段を選ばず。親も惨殺すれば、我が子の扼殺さえ厭わない。神出鬼没で悪逆非道、徹頭徹尾に冷酷無残。まさに人狼デス。
かくて中国の近現代史は土匪たちの合従連衡と栄枯盛衰ということに・・・なる。 《QED》
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