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【知道中国 356回】 十・二・念五
――頑固一徹・周作人・・・こんな中国人もいたんです |
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『日本文化を語る』(周作人 筑摩書房 1973年)
彼は簡素、自然を尊ぶ日本文化の姿を心から好む一方、纏足、宦官、阿片、八股文を生んだ中国文化を生涯にわたって嫌い、そして避けた。彼は俳諧、俳文、川柳、狂歌、小唄、俗曲、洒落本、滑稽本、落語、小袖に駒下駄、浮世絵といった江戸文化を憧憬し偏愛する一方で、共産党が金科玉条の如く掲げる大衆の革命性を、ロマン主義とか宗教と評し韜晦気味に斥け嘲笑した。
彼が1930年代に書いた日本に関する短い文章を主として編集されている本書から、日本人の立ち居振る舞いと日本文化に対する彼の温かくも辛らつな視線を感じると同時に、個人の力では如何とも抗し難い時代の流れに対する溜息が聞こえてくるように思える。
「このごろ中国に排日家が多くなったのは動かしがたい事実である。中国人の日本人に対する反感がとくに強いのは何故だろう。原因はいろいろと複雑に違いないが、思うに最も重要なのは、日本が中国人の性質をよく心得ていて、それにふさわしいやり方で片をつけようとするからである。・・・排日家の多くは、あらゆる日本人を一括して排斥排斥と叫び、ひたすら国民同士の憎悪を助長する。これにははなはだ同意しかねるのだ」
「中国には、その独特の地位からして、特に日本を理解する必要と可能性がある。だが事実はさにあらず。みな日本文化を軽蔑し、昔は中国を、今は西洋を模倣しているだけで一見もない、くらいに心得ている。なるほど日本の古今の文化が中国と西洋に取材していることは本当だ。しかし一通りの調合を加えてそれを自分のものとしたところは、あたかもローマ文明がギリシャ文明より出て自ら一家を成したのと同じである」
「中国と日本は同文同種などという間柄ではないが、文化の交流があったお蔭で、さすがに思想はいくらか理解しやすい。文字も習いやすい方であるから(もっとも反面では、日本文の中になまじ漢字の混じっていることが、中国人の透徹した日本理解を妨げているとわたしは思うのだが)」
「日本は小ギリシャといわれるとおり、確かにギリシャに似た特色をもっているが、中国文化との関係では、先進国の文化を持って行って保存あるいは同化のうえ一段と発揚した」
著者(1885年から1967年)は中国近代を代表する文学者である魯迅のすぐ下の弟。06年に兄を頼って日本に留学し立教大学に入学。下宿の娘と結婚。辛亥革命が起こった1911年に帰国し、17年には北京大学教授に。37年の日本軍の入城後も北京に留まり、北京大学文学院長に。日本敗戦後は文化漢奸として逮捕され、46年11月に懲役14年の刑が確定。国民党政権崩壊を機に獄舎から解放されたが、次の共産党政権が日本協力者を赦すわけがなかった。北京での幽閉生活を余儀なくされた彼は「一説便俗(言い訳はヤボさ)」とばかりに沈黙を貫き、文革初期の燃え盛る炎に焼き焦がされるようにして82年の人生を終える。
香港留学時代に知ることになった某氏は、偶然にも周の晩年の親友だった。彼が北京から受け取った手紙には東京で塩昆布、塩辛、うに、インスタント味噌汁、カステラ、羊羹などを調達して欲しい、と。兄は中国人に憤慨し、弟は東京に残る江戸庶民文化を偏愛した。どうやら日本での生活は、その後の兄弟の人生を大きく左右したようだ。 《QED》
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