【知道中国 373回】 一〇・四・初二
――タイの赤シャツ騒動に思う

 3月28日、バンコクのホテルで時間を潰していると、「改憲と国会解散を逼るタクシン支持派代表と首相との対話の実況中継が始まった」と友人から電話。直にスイッチを。双方3人の対話は和やかに、時に緊張しつつ続いたが、やはり平行線のまま。
ところが、タクシン支持派の赤シャツ3人の中央でアピシット首相を静かに問い詰めるのがウィーラ・ムシカポンだと知るや、不思議な思いに駆られた。内に滾る怒りを押さえ込む語り口の枯れた闘士の佇まいから、貴公子然と振る舞っていたかつての面影が想像できなかったからだ。

 生まれは1948年。名門のタマサート大学法学部を卒業後、MWWA(首都水道局)を経てフリーのジャーナリストに。「サイアム・ラット」「タイ・ラット」「マティチョン」などの有力紙でコラム二ストとして活躍し、75年の総選挙にはバンコクで民主党から初出馬し初当選。76年に民主党党首のセニを首班とする政権が成立するや、28歳の若さで政府スポークスマンに就任している。誰もが羨む順風満帆な政治生活の船出だった。

 だが、翌76年10月に発生したクーデター未遂で罪を問われたチャラート大将との共同謀議容疑で逮捕されてしまった。同事件を機に当時の国軍主流が文民内閣から政権を奪還し、73年10月の「学生革命」を機にはじまった「タイの民主主義」は終焉を迎えたのである。じつはチャラート大将は国軍主流には属さなかったゆえか、クーデター失敗直後に処刑されている。たとえ未遂であったにせよ、タイでクーデター関係者が処刑された例は極めて稀であり、それだけに政権奪還に成功した国軍主流にしてみれば、同大将の口を封じておく必要があったのかもしれない。同大将によるクーデター決起については、現在でもなお解明されていない謎が多すぎる。

 チャラート大将が何を企図し、それにウィーラがどのように関わっていたかは不明だが、ウィーラがクリアンサク大将とサガット海軍大将を頂点とする当時の国軍主流と敵対する立場に立っていたことだけは間違いなさそうだ。禁固5年の判決を受けはしたものの、8ヵ月後には釈放されている。クリアンサク首相の寝首を掻くかのようにプレム陸軍司令官(現枢密院議長)が首相に就任した80年、民主党の地盤である南タイのトラン補選での下院返り咲きを果たす。その後、プレム首相に重用され、農業・組合副大臣、運輸・通信副大臣、内務副大臣などを務めた。86年には王妃に対する不敬発言容疑で内務副大臣辞任に追い込まれているが、プレム長期政権を通じ一貫してプレム側近の民主党若手有望株として知られた存在だっただけに、そのまま順調に進んでいたなら、アピシットより早く民主党党首に就任し、首相の椅子に座っていたとしても必ずしも不思議ではなかった。

 05年末から始まり5年後の現在でもなお解決の糸口が見出せそうにないタクシン対反タクシンの終わりなき闘いに、彼が反タクシン陣営の支柱でもあったプレムを批判する急先鋒として登場し、いまや赤シャツを着て反独裁民主戦線(=UDD)を率いているのだ。

 いまタイは近来にない難関に差し掛かっている。国内政治の閉塞状況に手を拱くだけで明確な打開策を打ち出せない国軍、時の流れに金縛り情況の官僚・行政機構、新興勢力への嫌悪感を露にする財閥主流、烏合の衆と化し利権を求め離合集散するだけの政治家、無策な農政に苛立ちを隠さない農民、存在感を増すばかりの中国、なによりも王国としての前途に対する国内各層のぼんやりとした不安・・・ウィーラもまた、その渦中に在る。  《QED》