【知道中国 382回】 一〇・四・念五
――いやはや、それをゴ都合主義の極致といいます・・・ハイ

  『我們都是小闖将』(人民文学出版社 1974年)

 この本の「内容説明」に、「我が国の広範な少年児童は、党中央と毛主席の偉大な呼びかけに決然として応じ、批林批孔運動に自らを積極的に投じた。彼らはマルクス主義、レーニン主義、毛沢東思想を武器に、労働者・農民・兵士を模範として、林彪の反革命の犯罪行為とその修正主義路線を徹底して糾弾し」とある。ヤボを承知で敢えて説明するなら、この本は「我が国の広範な少年児童」が作った批林批孔をテーマとした詩集である。

 ひねたガキ共の詩で、鼻白むばかり。たとえば、「“万人坑”を前にして」という作品。

 「工事現場のおじさんは高いビルを建設し、紅小兵(ぼくら)は手伝い労働を学びます。昔、ここらはどんな場所だったの。骨がいっぱい出てきたんです。/お休み時間に輪になって、昔の事を考えましょう。年を取ったおじさんの苦しく悲しい話には、怒りの涙が止まりません。/「昔ここらは破れた墓場、悲しく惨めな“万人坑”」。
 解放されたその後は、村は大きく変化して、建物並ぶ“幸福村”。/労働者は生まれ変わりましたが、階級の敵の心は死にません。林彪ヤローは封建道徳を持ち出して、“万人坑”の悲劇を重ねようとします。/労働者のおじさんは多くを話してくれません。だけど一言ひとことが心に響きます。労働の現場で大会を開けば、批林批孔の声は天をも揺るがせます」

 こんな取って付けたような批林批孔の詩もどきの内容はどうでもいい。大いに興味を持ったのは、これまでパブロフの条件反射のように「日本帝国主義の蛮行・中国侵略の明々白々たる証拠」とされてきた万人坑を主題としながら、日本帝国主義の「に」の字もない代わりに、なんとも唐突に批林批孔が持ち出されたことだ。この作品をそのまま素直に読めば、林彪が権力を握ったら万人坑の悲劇が再演されてしまうことになる。ならば万人坑は日本軍国主義批判のための“専売特許”、いや“必須アイテム”でもなさそうだ。

 これまで万人坑とは、日本軍が大きな穴を掘り、そこに大量の中国人を生き埋めにし、あるいは惨殺死体を放り込んで上から土をかぶせて悪事の露見を防ごうとしたと説明されてきた。本多勝一などというウツケモノが、中国側のいうことを真に受けて、あるいは中国側の代弁者となって、かつて鉦や太鼓を敲いて万人坑の犯罪性を論っていたが、じつは万人坑とは中国の社会が必然的に生み出す問題を処理すべく生まれた一種の慈善行為だ。

 万人とは無数の人々の意。坑は穴であり墓地。つまり万人坑とは無数の無縁仏を葬った共同墓地の意味。かつて中国では自然災害が発生し多くが犠牲になったが、一体一体に棺を用意することなど、とても出来ない。都市などでは行き倒れも少なくなかったが、身寄りとてない彼らを葬ってやることはままならなかった。そこで篤実の有志がカネを出し合い、被災地に大きな穴を掘り大量の犠牲者を葬り、あるいは都市の郊外に大きな穴を用意して一人ぼっちで侘しく命を亡くしてゆく不幸な遺体を野辺送りしてやったのだ。だから万人坑は大きな自然災害に見舞われた地域や大都市郊外に多くみられるのである。

 こういった史実を踏まえてみれば、本多勝一流の無知蒙昧ぶりが判ろうというもの。
だが、それはさて置き、林彪批判に万人坑を持ち出すということは、中国自ら万人坑と日本軍国主義とは無関係であることを満天下に“白状”したようなものではないか。いや、それとも林彪は日本軍国主義と結託していたとでも・・・まさか、そりゃあないだろう。  《QED》