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【知道中国 385回】 一〇・五・初六
――なぜ、彼らは徒党を組むのか
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『中國の社會とギルド』(仁井田陞 岩波書店 1951年)
後に中国法制史の世界的権威となる著者は若き日の「昭和十七、八年の夏と、同十九年の秋と(一九四二―四四)前後三回」、北京でギルドに関する現地調査を試みる。だが、「昭和二十年から後は、再び北京に行って問題をたしかめる機會がなく、後日のふくみにそれを殘した點がある。
然し私のできたぎりぎりのところまでは本書の内容にとりいれてある」ということだから、少なくとも当時の日本においては最高水準の中国ギルド研究と考えて間違いない。いや、あるいは現在でもなお、本書を超えるギルド研究はないように思う。
著者は内部構造の面から捉えて中国社会を、「同族(血縁)や同郷(地縁)や、同學(學縁)や、同敎(敎縁)や同業(業縁)や、又、血縁の擬制というべき親分、子分、兄弟分關係の諸結合など、大小いくつもの、又、幾種もの社會集團が重なり合っているのであって、人はそのうちの一つに限らず、いくつもの關係をもってきた。人は生きて行くために、よりよくその生命と財産とを守るために、血縁のような自然的結合關係にたよるのは勿論のこと、人爲的な結合關係をもできるだけ作って、つとめてこれをたよりにしようとする」ものだと分析する。
さらに「地域的な同業仲間の・・・仲間的結合は、行とか行會とか或は?(幇・?)などといわれるが・・・?というそれ自體すでに『互助』を意味する。しかもこの互助結合たるギルドには血縁關係との重なり合いをもった場合がある。・・・そしてしつこい地縁的關係のからまりつきのため、その仲間的結合が特に強化されている場合がすくなくない」
さて、「その仲間的結合が特に強化されている」仲間と、それ以外の人々との間の利害関係については、「同族といわず、同郷といわず、同業といわず、これら集團にあっては、利己的であり、排他的傾向が強い。親愛や信義や誠實の徳目は、これら集團内部の自己と等質對等と思う相手に對しては守られはするが、集團を外した不等質、不對等と思う相手に對しては往々見捨てられ勝ちである」。それというのも「仲間の外は場合によってはかたきでさえある」から。つまり《自己人(なかま)》に対しては「對内道徳Binnenmoral」が心地よく、《自己人》ではない他人に対しては「對外道徳Aussenmoral」が冷酷・峻厳に働く。
このような仕組みが生まれたのは、「凡そ國家が十分な政治力を持たず、法的な保護機能の役割を完全に果たしえない時代、又、果し得ないでいるときには、人民はそれに比例して他にその利益を守り、利益を發展させる機構の必要に迫られる」からであり、「中国においてはその政治はきまぐれであり、人民の保護のためには――全然とはいわないが――十分に働かない」。そこで「人々にとって最もたよりにし期待し勝ちなものの一つは、自己とその身を寄せる集團の實力である。集團をこえた高い立場を考えるどころか、自己の集團を守ることに專念しがちである」
つまり中国においては「凡そ國家が十分な政治力を持たず、法的な保護機能の役割を完全に果たしえ」ず、加えて「政治はきまぐれであ」るから人民は様々な形で《自己人》が集団を形成し、「その利益を守り、利益を發展させる機構」を発明したということになる。だから政治権力という業縁で結ばれた共産主義青年団出身者たちは、「その利益を守り、利益を發展させる」ため、胡錦濤の周りに固く団結するしかない。ハイ。そいうことです 《QED》
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