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【知道中国 388回】 一〇・五・初九
――“北満”の日本軍遺跡から北の将軍サマとのニアミスまで
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愛国主義教育基地探訪(4-01)
90年代後半、江沢民政権が全国的に展開した反日教育運動に呼応するかのように、革命の史跡を旅行し、改めて1921年の建党以来の共産党の栄光の歴史を全国的に学ばせようと、共産党は一種の革命聖地見学ツアーを推奨した。「紅色游」である。
江から胡への政権交替時、共産党中央宣伝部は全国に点在する200ヶ所ほどの重要な革命史跡を「愛国主義教育基地」と命名し、04年末には共産党中央弁公室と国務院弁公室とが「2004年―2010年紅色游発展綱要企画」を定め、紅色游ブームを起そうと企図する。
かくて、実際にどんな愛国主義教育がなされているのかを、我が足と目と耳で体験してみようかと、ゴールデン・ウイークを利用しての紅色游に出発することとなった次第だ。
最初は3年前。革命の聖地である延安を経て、西安事件の起きた西安、国共間で熾烈な暗闘を繰り広げた重慶と廻った旅は、第1回共産党大会の開かれた上海の旧フランス租界で幕となった。延安ではカラオケ店従業員の女の子に旅行の目的を問われ「革命の聖地見学」と応えると、「アハハ」。西安でも国営土産物店で「延安へ行ってきた」と話すと、返ってきたのは「アハハ」の嘲笑。延安こそ毛沢東革命の聖地のはず。ならば愛国主義教育基地の中でも最も神聖であるべきものと思い込んでいたが、意外や意外、「アハハ」とは。
2回目は一昨年。上海から武漢を経て鉄道で長沙へ。後は車で南岳、衡陽と南下し西に転じて?江、鳳凰と進み東北に向かって常徳へ。さらに東南に進んで毛沢東と劉少奇の生家を訪れ長沙から空路で広州へ抜けた。湖南省西部の山峡の街である?江の郊外に蒋介石政権支援に“空の義勇軍”として馳せ参じたシェンノート指揮する飛虎隊(フライングタイガー)の基地が残り、付設の記念館では抗日をテコにしたアメリカと共産党(中国)と国民党(台湾)の友情の歴史が大々的に顕彰されていたとは。
3回目は昨年。天津から唐山、秦皇島、山海関と北上し、西方に道を転じ清朝歴代皇帝を祀る清東陵のある遵化に。さらに北西に向かって長城を越え清朝皇帝が離宮を構えた熱河へ。南下して古北口で長城を越え、さらに南下し北京へ。各地の愛国主義教育基地に麗々しく掲げられた説明文に誤りが散見され、大いに抗日戦争を戦ったという共産党の主張に少なからぬ破綻がみつかろうとは。
かくて今年は北京から飛行機で黒河へ。黒龍江を眺めた足で孫呉に下り、旧日本軍が進めた対ソ防備要塞跡を歩き、当時の飛行場跡に立つ。箸でも挿せば芽吹くと形容されるほど地味豊かな黒い腐葉土が見渡す限り続く。これぞ大地だ。「巨大な箱庭」のような中国本土とは明らかに違う。孫呉からは夜行列車で雑踏のハルピン駅頭に。以後、南下し瀋陽から100万を超える日本人が引き上げのための米艦船を待った葫蘆島を経て旧い港町の営口から遼東半島最先端の日露戦争激戦地・旅順へ。東鶏冠山の露軍要塞跡、二〇三高地に。
旅順から大連への海沿いの幹線道路の左側のなだらかな丘陵地帯では、超高級高層マンションの建設ラッシュ。強烈な上昇志向が渦を巻く。どれもが、前方の海を向いて建つ。後方が山で前方に水とは、風水の理論でいうなら幸運を約束された絶好の地なのだ。
さて最終目的地の大連では、なんと北の将軍サマ一行とのニアミスを3回経験する“大幸運”に恵まれようとは・・・。そこで暫し4回目の愛国主義教育基地探訪報告を。 《QED》
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