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【知道中国 391回】一〇・五・仲六
――黒い大地、北大荒、元紅衛兵・・・
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愛国主義教育基地探訪(4-04)
黒龍江省801放送局を後に車は黒河市に向かって進む。森林を過ぎると、腐葉土の黒い大地が続く。どこまでも、どこまでも、地平線の果てまでも腐葉土の大地だ。冬はツルハシさえも拒むほどに固く凍る凍土だが、春来らば「植えた箸でも芽吹く」とさえ形容される地味豊かな黒い大地とのこと。実際に歩いてみると足が沈み、また跳ね返すように思えるほどに弾力があり、素人目にも地味の豊かさを体感できる。
腐葉土の黒い大地といえば思い出されるのが、黒龍江省東部の三江平原を中心に5万6千平方キロの広さを持つ北大荒だ。共産党政権は食糧増産と復員兵士の職場確保のため、50年代に大量の兵士を送り込んだ。それから10数年後、文化大革命の勃発と共に、北大荒は再び全国的に脚光を浴びることとなった。
文革初期の疾風怒濤の原動力となった紅衛兵運動が一段落をみせた68年12月21日、毛沢東は「知識青年は農村に赴き貧農下層中農から再教育を受けることが極めて必要なことなのだ」との指示を下す。これを“真に受け”て、都市の高校・大学生を軸とした若者の多くが黒龍江、吉林、内モンゴル、青海、四川、雲南、海南島などの辺境に勇躍として赴くこととなった。
労働者・農民・兵士、分けても農民との生活のなかで都市の若者の肉体と思想を改造し、農業と工業、農村と都市、肉体労働と頭脳労働との間の「三大格差」を是正し、修正主義の芽生えを摘み取り防止する――これが毛沢東の意図とされ、当時、まことしやかに伝えられたものだ。「偉大なる領袖」の呼びかけに呼応し、68年から78年までの10年間に1623万人の都市の若者が農山村に向かった。そのうちの50万人が北大荒へ。
彼らは「上山下郷(山に上り郷に下ろう)」の掛け声に突き動かされるように、大いなる希望を胸に農山村に移り住んだ。だが心躍らせながら都市を離れた彼らを待っていたのは、辺境や山村の極貧地帯の厳しい現実。過酷な自然と達成不可能な増産計画。加えるに余所者を極端に怪しみ嫌う農民の冷たい目線。知識青年などと持て囃された彼らは冷厳な現実に泣かされると同時に、過酷な政治に玩ばれるしかなかった。
じつは当時、劉少奇派との権力闘争に勝利の目星がついた毛沢東にしてみれば、紅衛兵などという都市の知識青年は不要となったのだ。毛にしてみれば紅衛兵と名付けられた“怒れる若者“など、自らの政治的野望を達成させるための一時の手駒に過ぎなかった。だから、劉少奇という最大の政敵を葬ってしまった以上、直ちに消し去らねばならなかった。
自らが与えた「造反有理・革命無罪(暴れることは道理に合っている。革命のためなら如何なる非道も赦される)」との”護符“をタテに、権威を冒涜する愉しさを覚え、社会を思うが儘に破壊する悦びに浸ってしまった若者などは、この上なく危険な存在でしかない。学校はブルジョワ教育の温床だと閉鎖したことで将来への進路を断たれ、都市でブラつくしか行き場のなくなった若者に自活の道を与えることも、下放運動の目的の1つだった。かくて彼らは都市から体よく”所払い“を喰らったわけだ。それまで農具など持ったことのなかった若者は、過酷な農村生活に耐えながら社会や政治を、さぞや恨んだに違いない。
――60歳前後と思われるガイドが、「私もこの辺に下放されてました」と。 《待続》
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