【知道中国 409回】 一〇・六・念七
――ビルマ共産党の悲劇的闘争と喜劇的終焉・・・トホホ


   『罌粟花紅  我在緬共十五年』(楊美紅 天地図書 2001年)


 著者の生まれは雲南省保山。父親は四川人で人民解放軍の地方幹部だった。幸せな一家を悲劇が襲ったのは66年8月。紅衛兵が「反革命叛徒」の罪で父親を逮捕・拘禁する。9日後、再び彼女宅にやってきた一群の紅衛兵は、「お前の父親は文化大革命に反対し、罪を畏れ自殺した」と。彼女は憤激のあまり手にしたレンガを紅衛兵の指導者の顔に投げつけ大怪我をさせる。15歳の時だった。かくて彼女も「叛徒」として牢獄に。一切の罪を認めなかった彼女は、67年のある日、釈放され帰宅する。気が狂った母親は行方不明に。「いずれの日か父親の恨みを晴らし、母親を探し出す」と固く誓う。

 紅衛兵に反抗したことは文革に反対し、毛沢東に叛旗を翻したことになり、文革期の中国で生きてはいけない。ビルマ(ミャンマー)へ逃れ、緬共(ビルマ共産党)に紛れ込む。だが緬共が中国共産党の強い影響下にあるかぎり、彼女は前歴の故に中国送還は必至だ

 ある戦場で偶然ながら遭遇した逃亡途中の敵司令官を射殺するという軍功を挙げたことから、彼女は正式に緬共党員と認められ、中国送還の危機を脱した。やがて緬共の娘子軍(女子戦闘部隊)を指揮し、時に正規軍の参謀として戦場を駆け巡る。

 68年秋、緬共内でも中国に倣って文革式の権力闘争が発生する。党内No.2を筆頭に80人近い中核幹部が「資本主義の道を歩む実権派」「党内に紛れ込んだ敵のスパイ」といわれなき罪ゆえに処刑されていった。凄惨な処刑現場に立ち会うことを余儀なくされるが、死者への同情が反革命を意味する以上、心の動揺は隠さなければならない。

 彼女の伝える緬共の処刑方法だが、手に太い棍棒を持った屈強な男が死刑囚の後頭部を叩き頭蓋骨を打ち砕く。脳漿が飛び散る。地面に倒れた体を、4,5人が棍棒でグシャグシャにしてしまう。別の方法は・・・死刑囚に大きな穴を掘らせ、作業が終わったところで、隣に立った屈強な男が手にした鋭利な刀が一閃。首と胴体が離れ血
潮が四囲に吹き飛んで処刑は終わる。それもこれも、貴重な弾丸をムダ使いしたくないためだ。

 前後の文脈から判断して69年のことだと思えるが、人民解放軍から派遣されていた緬共軍事顧問が、ミャンマー東北部の要衝で知られるラシオへの攻撃を立案する。現地の事情に通じた緬共幹部は反対するが、相手が相手だけに意見具申はできない。なにせ武器弾薬から幹部の妻に至るまでの一切合財を、緬共は中国共産党からあてがわれていたのだから。

 予想通りラシオ攻撃は大敗北。命からがら戦線を離脱し、2年ほどの逃避行の末に原隊復帰を果たす。その間、彼女は中国から脱出しミャンマー山中に住む同胞に助けられる。

 鄧小平が復活し改革・開放路線を歩みだした頃、彼女は幹部として緬共訪中団に加わり北京へ。そこで待っていたのは「85年1月1日を期し一切の援助停止。それまでの5年間で自力更生への道を探れ。革命は自国民のみでおこなうべし」との中国共産党からの決別宣言だった。かくて緬共は瓦解の道をまっしぐら。明日なき幹部の多くは動揺激しく、“革命の大義“をかなぐり捨て生き残りの道を模索する。中にはアヘン販売に手を染める者も。

 雲南で家庭を持ち穏やかな生活を送る彼女は、ある日、街で乞食に身をやつした元緬共最高幹部に出会う。彼は顔を苦痛に歪めながら彼女から渡された現金を押し戴き、人混みの中に消えていった。ところで彼女は父親の恨みを、いつ晴らすのだろうか。 《QED》