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【知道中国 422回】 一〇・七・念七
いよッ、皆様、お揃いで・・・よござんしたネェ、あの頃は
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『輝煌的十年』(生活・讀書・新知三聯書店 1959年)
先ず、この本に納められた論題と執筆者を挙げておくと、「マルクス・レーニン主義の中国における勝利」(劉少奇)、「偉大なる十年」(周恩来)、「党の総路線と毛沢東軍事思想の紅旗を高く掲げ雄々しく前進しよう」(林彪)、「中国人民の大団結と世界人民の大団結」(鄧小平)、「世界平和と人類の進歩の事業のために奮闘した10年」(陳毅)、「我が国社会主義建設の大躍進を論ず」(李富春)、「中国共産党は中国人民による社会主義建設の最高統帥である」(劉瀾濤)、「高速度で発展する我が国の鋼鉄工業」(王鶴壽)、「十年来の農業戦線における輝かしき成果」(廖魯言)、「二回目の十年のさらに偉大な勝利のために奮闘せよ」(人民日報社論)――
毛沢東を除いた当時の共産党最高首脳陣が雁首揃えての揃い踏み。いわば、この本は彼らの“自画自賛集”といったところだろう。いずれも懐かしい名前ばかりだが、以後の彼らが歩み、また歩まざるをえなかった千変万化・紆余曲折・栄枯盛衰・卑怯千万・老獪無比な人生模様を改めて振り返ってみれば、『輝煌的十年』の共同執筆は、互いが心に含むところなく「同志」と呼び合うことのできた牧歌的で幸せな時代の、最期の一瞬の“輝煌”だったともいえそうだ。いま思えば、彼らの精神は夢のように高揚していたに違いない。
やがて『輝煌的十年』も終わり「二回目の十年」が始まるや、北京の奥の院では権力をめぐっての権謀術数が渦を巻き、文化大革命に向かって疾風怒濤の時代が始まるわけだが、それにしても、よくもまあ、こう嘘八百を並べてくれたものだと呆れ果てる。
たとえば文革で毛沢東一派から悲惨極まり体験をさせられ、いまや“殉教者”の如くに祭り上げられている劉少奇は、「中国革命の勝利は中国社会の生産力を徹底して解放し、社会主義建設を一日千里の猛烈な速度と勢いで前進させたがゆえに、貧しく遅れた中国の姿を超高速で改変させた。全国解放後の最初の3年間、つまり1950年から52年、国民経済を回復させるという任務は順調に回復し、農業生産は旧中国の最高水準を達成した」。かくして第1次5ヵ年計画が完成した57年には「工業化のための初歩的な基礎をうち立てた」。第2次5ヵ年計画が始まった58年には「国民経済は大躍進が達成され、57年に較べ工業生産は66%、農業生産は25%と、それぞれ増加している。・・・工業主要産品の生産量は、すべて第2次5ヵ年計画が想定した62年の完成目標に近似で、あるいは超過して達成されるだろう。中国社会の生産力のこのような超速の発展は、如何なる資本主義国家でも較べることはできないし、もちろん旧中国においては夢想だにできなかったことだ」と成果を誇り、かくて「我われをしてマルクス・レーニン忠義の旗を高く掲げ前進させしめよ! 全世界におけるマルクス・レーニン主義勝利万歳!」と論文を締め括る。
だが、現実はそうならなかった。食糧生産量は59年は1.7億トンで54年の水準に、60,61年は1.4億トンで51年の水準まで下がってしまう。食糧不足は危険水域を超え、58年から3年間の餓死者は4000万人前後。現実を無視し、国を挙げて大躍進に狂奔した結果の飢餓だった。いまになって全責任を毛沢東に押し付けるとは、虫がよす
ぎませんか。
それにしても60年代、つまり「二回目の十年」が悲惨であればあるほどに、『輝煌的十年』と力み返る彼らの姿が可笑しくもあり、痛々しくもあり、ブザマでもある。 《QED》
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