【知道中国 427回】一〇・八・初八

   ――胡錦濤主席ドノ、模範共青団員だった胡業桃を覚えておいでですか・・・

   『“模範共青団員”胡業桃』(上海人民出版社 1971年)

 1970年1月25日、この物語の主人公である胡業桃は「為人民利益而死、就比泰山還重(人民の利益のための死は泰山よりさらに重い)」と、20歳の若い命を捧げた。

 彼が生まれた安徽省の家は、まさに極貧としかいいようのない農家。「祖父は数十年を地主の家で牛馬のようにこき使われ、両親は幼いころから乞食をしていた」。1947年、彼の3歳の姉と1歳に満たなかった兄は、両親が街で物乞いをしている間に餓死していたのだ。

 毛沢東が導いた新中国に生を享ければこそ、彼は「幼い頃から旧社会に対する大いなる恨みを心に刻み、偉大なる領袖・毛主席への無限の熱愛を抱いていた」。両親を失いながらも、胡少年は「物心つくようになると、貧農下層中農と人民解放軍の心からなる教育を受け、毛沢東思想の陽光と慈雨になかですくすくと成長した」というから、幼いながらもリッパな毛沢東思想サイボーグ戦士だった。だから、20歳での犠牲は運命だったのでは。

 1961年に彼が住む村に進駐してきた人民解放軍の兵士によって、毛沢東の著作を教えられる幸運をえた。「ランプの光が明るさを増すほどに、彼の心はいよいよ輝く。メシを食べず、睡眠を取らなくとも、毛主席の著作の学習は止めるわけにはいかない」。学習の効果というものだろう、やがて彼は村一番の働き手であり毛沢東思想の導き手となって文化大革命の活動家に成長する。18歳の彼に向って村人が将来の希望を問うと、「彼は毛主席像を真正面に見据え、壁に貼られた世界地図を指差して『銃を手に毛主席の歩哨となって、プロレタリア階級のために天下に打って出て、全人類を解放したい』と熱く語った」というから、これはもうリッパなもの。いや、リッパすぎて頭が下がります。

 1969年3月2日、念願が叶い、彼は人民解放軍の新兵に。

 来得遅、説得快(その時遅く、かの時早く)、「憎っくき社会帝国主義が我が領土を侵犯したとの情報が入った」。彼は連隊本部に駆けつけるや、「連隊長ドノ、前線に急行し祖国防衛の任に当たらせて戴きたいであります」。すると連隊長は彼の両腕を強く掴み、「祖国防衛の真の戦士になるためには、毛沢東思想を活学活用しなければならない」

 その時以来、彼は「毛主席の著作を読み、毛主席の話を聞き、毛主席の指示に従って事をなせ」という林彪の有難い教え(?)を忠実に励行することになる。ともかくも苦労を厭わず、働きに働く。ケガなんかで弱音は吐かない。ケガを押して軍務に励む。やがて連隊長の推薦をえて共産党への入党を申請する。69年12月29日に提出された申請書の最後を「全人類を解放するため、燃え滾る真紅の血で地球全体を染めあげたい」と結んだ。

 年が明けた1月25日午後、作業を誤り電線を切ってしまった戦友を救うべく、彼は電線を掴んだ。その刹那、高圧電線の先から火花が飛び散る。かくて人々の願いも虚しく、「胡業桃の心臓が再び元気良く動き出すことはなかった」。そりゃそうだ。高圧電流の流れる電線を素手で掴むなんて無謀が過ぎます。さすがに百戦百勝の毛沢東思想でも、敵いません。

 「胡業桃は偉大な一生を送った。生前、革命の青春は燃え盛る炎に似て、死後、英雄的な行いは四海(せかい)に伝わる」。かくて「1970年12月、中共中央は光栄ある党員として追認し、併せて“模範共青団員”の光栄ある称号を授与した」とか。まあ、いまや“忘れられた英雄”の1人ということになるが、果して胡業桃は実在したんだろうか。  《QED》